新年早々、雑感と予感

大晦日、夕方から惰性でテレビを視聴。自宅の会読会で残った日本酒を一杯、二杯目にウィスキーをジンジャーエールでハイボールにして飲んだ。11時頃までもぐもぐとつまみを口にしていた。酒豪とはほど遠く、毎日酒を嗜むなどという習慣とも無縁だが、大晦日だけはここ十年ほどそのような過ごし方をしている。元旦の昨日、午前7時に目が覚めて、窓を開ける。この冬一番の寒さだった。透き通った冷たい空気に肌が瞬時に反応した。

昨年もブログ始めは12日。とある神社で引いたおみくじは三十六番だったのを覚えている。今年もその神社に行くことにした。ついつい日当たりのよい道を探し求めてしまう。神社方面は通りのこちら側なのだが、敢えて朝の陽射しを求めて通りの向こう側を歩く。神社ではセルフだが御神酒を振る舞っている。小ぶりな柄杓で樽からすくってコップに注ぐ。昨年のおみくじが三十六番だと覚えているのはほかでもない。直前に引いた男性が三十六番で、続いて引いたぼくのも三十六番だった。筒をしっかり振ったにもかかわらず、同じ番号が出た。

巫女さんに「去年は三十六番だった」と言えば、「よく覚えていますね」とにっこり。今年は同じ番号を引くまいと念入りに筒を振る。そして、適当に「十二番!」と予告すれば、驚くなかれ、十二番のみくじ棒が出てきた。こんなときは、だいたい「凶」と出るのが相場である。案の定、凶であった。縁起でもない! などと立腹せずに、メッセージを拝読。「自惚れたり過信するとよくないぞ」というようなことが書かれてあったので、ありがたく受け止めることにした。


足を伸ばして名のよく知れた別の神社を通り抜け、さらに南下して、これまた有名な名門の寺をくぐった。神仏の熱心な信者でもなく有神論者でもない日本人の多くは、このように神社仏閣のハシゴができるのである。年中行事的には教会も加わるから、まことに都合よく神仏を活用するものだ。

ところで、おみくじの十二番。もしあの番号が昨年と同じ三十六番だったら、別の驚きを覚えたに違いない。三十五番か三十七番なら、「おっ、去年と一番違い」と驚き、一番や七番や八番だったらそれぞれに縁起を感じようとしたに違いない。確率論を学んでいた頃によく感じた不思議がある。三桁の000から999までの数字のどれかが出る確率は同じ。たとえば169777のどちらも千分の一の確率で出てくるのだが、なぜ同じ数字が三つ並ぶと驚いてしまうのか。確率にではなく、数字が揃うことに感動しているのである。

もう一つの驚きは予感や想定と一致することによるものだ。十二番と考えたから十二番に驚くわけで、何も考えていなければそんなことに注意は向かない。何事かの前に予感を膨らませたりイメージを掻き立てたりすることは楽しい。外れてもショックはないが、当たると直感の冴えに喜びを覚えることができる。この通りのあの角を右へ曲がれば愛らしい小犬がいるなどと想像して、ほんとうにそうであるケースはめったにないが、その通りであったらもうたまらない。あれこれと雑感を膨らませればわくわくする予感も芽生え、予感のいくつかが的中して快感につながる。

直観は有力な方法か

「直感」と「直観」という表記を使い分けるのはやさしくない。正しく言うと、これは表記の問題ではなく、そもそも意味が違っている。意味が違うから、わざわざ二つの用語がある。ぼくなりには使い分けているつもりだが、人それぞれ。読み方、聞き方は一様ではない。

ぼくなりの使い分け。「直感」の場合は、「直」を「ぐに」と解釈する。つまり、「直ぐに感じる」。現象なり兆候を見て、瞬時に感覚的に何かを見つける――これが直感。他方、「直観」は哲学用語でもある。こちらの「直」は「じかに」ととらえる。観察や経験の積み重ねにより、何かの本質を直接的に理解すること――これが直観。直感を「ひらめき」と言い換えてもさしつかえないが、意地悪く「思いつき」と呼ぶこともできる。直観は、ひらめきでもなく思いつきでもない。

もう一つ付け加えると、直感で気づいたことはいくつかの選択肢からポンと飛び出してきたのではなく、それ自体独立したものだ。だから、「なぜ?」と問われると理詰めでは答えられない。「何となく」と返すしかない。「直感ですが、Aはどうですか?」に対して、「他に何かない?」と聞いても、BCを吟味した上でのAという選択ではないので、聞き返された人も途方に暮れる。


他方、直観には観察や経験を通じて培われた暗黙知が働く。直観で決めたことには、直観で決めなかったことが対比される。直観にはなにがしかの選択がともなう。複数の選択肢からもっとも本質的なAを取り上げている。直観で選んだAにオンのスイッチが入り、その他の選択肢BCDEにはスイッチが入らずオフのままなのだ。では、その直観作業ではBCDEも実際に検討したのか。いや、検討などしていない。暗黙知が機能するので、検討対象から外しておけるのである。

スポーツであれ将棋や囲碁であれ、プロフェッショナルは「ありそうもないこと、おそらくなさそうなこと」をわざわざ思索して排除しなくても、「勝手に」除外できるようになっている。その結果、押し出され式にあることを直観的に選ぶ。その直観によって選択したことが、だいたい理にかなった行動や手になっているものなのだ。

行動パターンや手の内が豊富だからこそ直観が可能になる。本質を洞察するためには、観察や経験の絶対量が欠かせない。もし直観したことに問題があっても、暗黙知には別の選択肢が蓄えられているから、論理的検証をしたり再選択したりすることもできる。プロフェッショナル度とすぐれた直観力はほぼ比例する。ゆえに、直観は単なる一つの方法などではなく、きわめて有力な方法になりえるのである。