「知のメンテナンス」とは何か

すっかり日本語になったメンテナンス(maintenance<動詞maintain)。今ではほとんどの場合、「保守」を意味する。原義は「維持」に近く、しかも”main+tain“と分解すると「手+持つ、支える」となって、「手入れ」に近いような、アナログ的ニュアンスが浮き彫りになる。

ずいぶん前の話になるが、コピー機がよくトラブルを起こしたものである。メーカーは定期的に保守点検をしてはいたが、突発の故障発生にしょっちゅう顧客に呼び出された。故障からの回復を容易にすべく、各社は競ってコピー機に〈自己診断セルフ・ダイアグノシス〉の機能を付加した。機械そのものが、「この箇所がトラブル発生源」とか「修復するにはこの手順」などと自己診断して、ユーザーに知らせるのである。機械は「調子が悪い」と告げて原因も明らかにするのだが、残念ながら修復には他力を必要とする。

機械を人間に置き換えてみよう。「体調が悪い」と自覚しなければ、人間は治療したり改善したりしようとはしない。正確な診断と処方を医者がおこなうにしても、まずは「何か変」に本人自身が気づかなければ、医者のもとを訪れることはないだろう。プロスポーツの選手などは必ずどこかが悪いものなので、自覚するしないにかかわらず、習慣的な身体の手入れを怠らない。この「手入れ」というのが、メンテナンスの本来的な姿だと思う。


そこで、知のメンテナンスとは何か、である。「アタマが悪い」と気づき、良くなるように保守点検することか。いや、成人なら、自分のアタマの良し悪しの値踏みはしているだろう。少なくとも他者と比較しての相対的な判断ぐらいは、とうの昔に下しているはずだ。知のメンテナンスではアタマを良くすることはできない。もう一度、機械のメンテナンスを思い出してほしい。それは機械の質を高めることではなかった。その機械に付与されている機能を十全に働かせることであった。機能そのものが、高機能であれ低機能であれ、うまく働いていないときに迅速に手入れをすることがメンテナンスなのである。

知のメンテナンスにおいては、アタマが悪い人でも知が精一杯働いていれば、機能不全に陥ったアタマの良い人よりも、手入れが行き届いているという考え方をする。アタマの悪い人には励みになるだろう(ならないか!?) ぼくは軽はずみに冗談を言っているのではない。世の中がアタマの良し悪しで動いてはおらず、人間力や成功がアタマの良し悪しだけで決定しないのを見ればわかる。IQの高低や知識の多寡よりも重要なのは、自分自身の知が健全に働いていることなのだ。

同じ仕事を続け同じ発想ばかりする。情報をやたらに取り込みはするが知が働かない。逆に、アタマは混沌としてにっちもさっちもいかない。放置していると、現代人は知の迷い子になってしまうのだ。ことばの使い方、アタマの働かせ方には「理に適う」ことが必要なのである。アタマを良くするコツがないとは言わないが、持てる知の最適稼動が先なのだ。機械が己の機能を知っているほどに、ぼくたちは己の知のありよう、言わば〈知図〉に精通していない。

知のメンテナンスとは、知の方向音痴に手入れをすることにほかならない。ひとまず大まかな東西南北の位置関係をきちっと見極めれば、やがて南南東や西北西などの精細な方向感覚が鋭くなってくる。以上のような視点を、ぼくは今年の私塾のテーマにしている。人物論を触媒にして、一工夫凝ったつもりである。