旨い魚は旨い

「旨いものは、やっぱり旨いねぇ」と誰かが言い、自分もよくそう言うことがある。どんな商品か店か忘れたが、「旨いもんは旨い」という関西弁のコマーシャルがあったのを覚えている。この種の文章は同語反復文と呼ばれる。英語ではギリシア語源のトートロジー(tautology)という表現を使う。論理的にはまったく意味を成さないものの、主語と述語に同じ用語を使うのだから、どこから見ても完璧に自明になるのは当たり前だ。

けれども、完璧に自明なほど、ただ旨いと言うしかない料理がある。「旨いもんは旨い」の「もん」の箇所は、食べるものなら、肉でも野菜でも中華でも何でもよい。一昨日の土曜日、金沢でいただいた刺身盛はまさに「旨い魚は旨い」であった。五月にご馳走になった、山間やまあいの茶屋でのイワナ会席も絶品だったが、いずれも「旨い」の右に出る形容詞は思い浮かばなかった。

いくらかは表現力もあるつもりだが、旨いものに出合ってしまうと品評のためのことばを失ってしまう。食材を絶賛するときのぼくたちの語彙不足ときたら、何というていたらくだ。「旨い」か、それに近い褒めことばか、あるいは、唸るか無言かのいずれかだろう。グルメレポーターのように「お口の中が宝石箱」のようなコメントは現実的にはありえない。もし「舌が抱腹絶倒の幸福感に浸っています」などと冷静に語れるならば、それは未だ美味に到っていない何よりの証拠である。


しかし、旨い魚は実に旨いのである。ほんの十年ほど前は「旨い肉は旨い」だったのだが、肉の上限は見えてきた。別に最高級の肉を極めたからではない。自分の懐具合における極上にはほぼ出合った気がしている。それには理由があって、ぼくにとっての旨い肉は「とろけそうなほど柔らかい肉」ではないからだ。柔らかい肉が旨い肉ではありえず、むしろ「頼りない肉」なのである。口に入れた瞬間とろける肉を食べるために大枚をはたく気はない。予算内で楽々済ませられ、野趣溢れる肉汁が広がり、しっかりした歯応えのある肉にぼくは十分に満足できている。

ところが、魚ときたら、いくらでも上には上がある。たとえば、「これは究極のブリだ」と感嘆したと思ったら、翌年に別の場所で別のブリを絶賛することになる。刺身が旨いと思ったら、ブリカマがもっと旨かったりもする。年齢のせいかもしれないが、魚のほうに奥行きを感じる今日この頃だ。

ここまで旨い魚を絶賛してきたくせに、少々興ざめなことを書こうとしている。「旨い魚は旨い」というのは不正確で、実は「旨い魚」などないのである。生のままであろうと焼こうと干そうと煮ようと、魚が旨いのではない。旨さは魚側の属性ではなく、人間側の、味覚を含む五感と価値観によって捻出される。昨今用いられることばでは〈知覚品質〉が近い。「旨い」とは、ぼくたちが「認めていて好んでいる価値の表現」なのである。裏返せば、「不味まずい」は、「認めるどころか、嫌っている価値の表現」だ。だから、「旨い魚は旨い」と「不味い魚は不味い」のいずれもが成り立つ。しかも、同じ魚料理について二様に評されるのである。