余計なことを考えたり口に出す精神

まったく縁のない話は、いくら想像を働かせてもまったくわからない。まったくわからないことに絡んだりツッコミを入れたりすることは不可能である。その話題や事柄と接点がなければ、批判すらできない。批判精神を高尚なるものと思いがちだが、そんな大それたものではない。すでに知っているか、何らかの関心があることに対して「ちょっと待てよ」というのが批判精神だ。その批判精神が「余計なことを考えさせたり、一言口に出させたり」するのである(言うまでもなく、知らないことや関心のないことは賞賛も批判もできないし、するべきでもない)。

一昨日ある格言(諺?)を初めて知った。「碁に負けたら将棋に勝て」がそれだ。ほほう、こんな言い回しがあるのかと淡々と吟味してみた。ぼくは碁は知らない。周囲に碁打ちがおらず、いっさい学ぶ機会がなかった。将棋は二十代の頃に二年間ほど嵌まった。基本は独習したが何度かプロにも教わったし、道場にも通った。実戦機会が少なく「ペーパー四段、手筋三段、実力二段」などとからかわれた。おもしろいことに、道場ナンバーワンのアマチュア四段に勝ったこともあれば、中学一年の三級に惨敗することもあった。波は激しいほうだが、決してヘボではないと自覚している。

さて、「碁に負けたら将棋に勝て」。碁を知らなかったら、そもそも碁を打たないだろうから、碁に負けることはない。その彼が将棋を知っているにしても、「碁に負けたら」という仮定が成り立たない。次に、碁は知っているけれど将棋は知らないという別の彼にも当てはまらない。「碁で負けた。ちくしょう、次は将棋だ」と矛先を変えることができないからである。もうお分かりだろう。これは碁と将棋の両方をたしなむ人に向けられた格言なのである。


ところで、あることで負けたけれど別のことで勝てば相殺できるのだろうか。「幸福度ではお前に負けるが、頭の良さでは勝つぞ」と言ってみたところで、単なる負け惜しみではないか。賢さなどよりも幸福のほうが絶対にいいとぼくは思う。もっと言えば、幸福でありさえすれば、他のすべてが連戦連敗でもいいのかもしれない。

以前NHKの衛星放送で藤山直美と岸部一徳が対談をしていた。一言一句まで正確には覚えていないが、「舞台で失敗して憂さ晴らし云々」と語る岸部に対して、藤山が「舞台で失敗したもんは舞台で取り返さなあかん!」とたしなめていた。10歳以上も年上になかなか飛ばせない檄である。こういうのを最近は「リベンジ」ということばで済ませるのだが、誰か相手がいて仕返しをしているわけではない。ダメだ失敗だと思うたびに対象を変えたりレベルを落としていては、永久にプロフェッショナルにはなれないだろう。

昨日、日本対オーストラリアのサッカーの試合を観戦した。ワールドカップドイツ大会の借りを返すだのリベンジするだの騒いでいたが、舞台違いじゃないかとぼくは思っていた。負けたのはワールドカップの本場所だ。今回はアジア予選だ。「世界で負けたらアジアで勝て」などということは、アジアの偏差値が世界を逆転してから言うべきだ。結果、引き分けだった。「世界で負けてアジアで引き分け」では格好はつかない。


碁と将棋の話に戻る。あなたが完敗に近い形で碁で負けたとする。悔しいあなたは負けた相手に「ようし、今度は将棋だ!」と挑戦する。相手は困惑気味にこう言う――「あのう、私、将棋は指せないんです」。将棋で勝つどころか、将棋で戦えないのだ。さあ、あなたはどうする? 将来彼を倒せるようになるまで碁を猛勉強するか、それとも彼に将棋を教えて早々に勝利の美酒に酔うか。