定義の「たかが」と「されど」

定義の話、再び。昨日のブログを読み返してみたら、定義に対して批判的とも受け取られかねないトーンが漂っていた。所詮誰かが勝手に決めたもの、「たかが定義」という見方がないわけではない。けれども、仕事柄、定義が使えないと困り果てるのはぼくである。だから、「されど定義」という常套句でもう一方の本意も吐露せねばならない。

仕事中に辞書を引いて遊んでいるように思われるかもしれないが、それも誤解である。実を言うと、来月の私塾の”ラフスケッチ”を描いているのだが、定義がとても重要な出発点になりそうなのだ。講座のテーマは『構想の手法』。構想の手法の構想を練っているというわけである。構想の定義については、週明けまでにはぼくなりの方向性がまとまるはず(まとまらないと、講義の構成が立たない)。今日のところは、もう少し定義一般について考えてみたい。

昨夜と今朝、いくつかの辞典で「ていぎ【定義】」そのものを調べてみた。するとどうだろう、ぼくが昨日大胆に書いた意見を裏付けるかのように、「意味の制限」こそが定義のありようを示しているという確信が得られた。定義とは「ある事物を表わす用語の意味や適用される範囲をこれだけの条件を満たすものだと定めること」とある辞書には載っており、また別の辞書では「ある概念やあることばを他のものと区別できるよう限定すること」と書かれている。いずれにも、範囲指定、条件適合、差異・区別、限定などがうかがえる。


広辞苑は丁寧に――と言うか、ややムキになって哲学っぽく――説明している。箇条書きに分解すると次のようになる。

(1) 概念内容の限定
(2) 概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし、他の概念から区別すること
(3) 概念の属するもっとも近い類を挙げたうえで、その概念が体系内で占める位置を明らかにすること、さらに種差を挙げてその概念と同位の概念から区別すること。

「たかが定義だが、やっぱりされど定義なんだなあ」というのが、難解な定義を読みながらの率直な気持である。要するに、あれもこれも言いたいところを欲張らずに我慢しないと定義にならないのだ。「内包」という難解な用語は、内部にもつ共通の性質のことで、たとえば「筆記具」なら「書くもの、手で操るもの、芯をもつもの、先のあるもの」などとなる。これらの属性は、たぶん万年筆、ボールペン、シャープペンシル、筆ペンなどに共通している。ここまでが上記の(1)(2)が言わんとしていることだ。

(3)はさらに難解だが、広辞苑は格好の例を挙げている。「人間とは理性的な動物である」と定義する時、「理性的な」が種差で、「動物」が類概念となる。定義は手間のかかる作業で、あらためて「されど」を感じてしまう。ところが、ちょっと待てよ。「人間とはXXXYYYである」という定義はいくらでも、極端に言えば、人の数だけ創意工夫できるわけだ。「人間とは油断するとすぐに怠ける哺乳類である」でも思い当たるフシがあるから、「理性的な動物」ほどではないが、共通観念にのっとった定義になりえるだろう。気をつけないと、定義の絶対視には偏りがあるのだ。この思いが昨日のブログで「たかが」を醸し出したに違いない。