立ち読み以前

オフィスから歩いて5分のところにコンパクトな都市型モールがあり、その7階に書店が入っている。その書店は洋書に強い老舗書店とコラボして、大阪梅田に日本最大級の、在庫200万冊規模の売場をオープンした。この種の超広大なスペースを誇る店を「ダブルブランド巨艦店舗」と言うそうだ。一度覗いてみようと思う。

なぜ「一度だけ」かと言うと、だだっ広い書店が苦手だから。品揃えの少ない書店も困るが、在庫豊富で書棚が林立すると、森の中で一粒の木の実を探すような気分になってしまう。ぼく自身、読書ジャンルが広く、人が読まないような異本を買い求める傾向がある。それでも珍本奇本を探しているわけではないので、仕事場から近いまずまずの規模の書店で十分なのである(そこにしても大型書店に分類される)。

その書店はどこの店にもテーブルと椅子が置いてあって、好きな本を書棚から引っ張り出して腰掛けて読んでもいいことになっている。まるで図書館。そのありがたいテーブルと椅子、実は一度も利用したことがない。元来、あまり立ち読みもしない。少しペラペラと捲って「買ってみよう」と直感が働けばそれ以上は読まない。もう一度書く。ぼくは、まず「買ってみよう」と思うのであって、「読んでみよう」とは思わないのである。読んでよければ買うのではなく、買って読む。関心があれば読む、のではなく、関心があれば買う。出版文化を支えるのは買う読者である。さっさと買ってしまうのだから、長時間座り読みする必要がない。


表紙と書名は見るし目次にも目を通す。次いで、適当に捲ったページに目を落とし、相性がよさそうなら買うと決める。この間、たぶん30秒もかかからない。世間ではこれを立ち読みとは言わないだろう。このほんのわずかの時間は、同時に不買決定のための儀式でもある。先週、こうして「買わなかった」のが『即答するバカ』という本である。『バカの壁』は例外的に読んだが、あまり下品な書名を好まない。経験上、下品系はタイトルと中身が一致せず、また読後のがっかり度が高い。「即答するバカ」という書名で、よくも200ページも書けるものだと感心はするが……。

『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)に倣って、上記の本を寸評してみる。ちらっと読んだページで「考えないで直感的に喋ったり答えたりする若者」に対する批判がある。しかし、よくよく考えてみれば、「浅慮即答するバカ」もいるが、それすらできないバカも大勢いる。しかも、「熟慮してもやっぱりバカ」もいる。同じバカなら「即答するバカ」に軍配をあげたいが、どうだろう。この本に対抗して『即答しないアホ』という本も著せる。こちらはモラトリアム論になりそうだ。

話は簡単である。即答は一種の技であって、頭の良し悪しとは別だろうと思う。むしろ、即答できるかできないか――あるいは「速答 vs 遅答」――には性格が絡んでくる。いや、もしかすると、力関係で上位に立つ者が「安直に即答するバカ」を作っているのかもしれない。ところで、もう一冊、買わなかった本がある。『40才からの知的生産術』がそれ。この本を手に取る40才が、過去に知的生産の方法について何一つ試みもせず、この一冊から出発しようとするなら、おそらく手遅れである。ぼくなら別の本を書く。『40才からの知的消費術』。こっちなら可能性がありそうではないか。

本探しのおもしろさ

この本を読もう!   と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行く時は書名がわかっているから、大型書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。

何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊でトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。

大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの2、3分ほど目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。


古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。

最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。……」

断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。

『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在していない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。