場末はどこにある?

知人と場末についてあれこれと話した後、しばらく考えてみた。『広辞苑』によれば、場末は「都市で、中心部からはずれた所」であり、具体的には「町はずれ」ということになっている。「場末の酒場」という活用例が挙がっているが、別に酒場でなくても「芝居小屋」でもいいのだろう。ともあれ、場末に「さかば」という音の響きはとてもよく合っている。茶店さてんやスナックなども場末と相性がいい。

別の辞書には「繁華街からはずれた、ごみごみした場所」とも記されている。ごみごみはわかるが、「繁華街からはずれた」にはちょっと異議ありだ。場末は繁華街というエリアになければいけないのではないか。繁華街にあって、なおかつ「末」、つまり「端っこ」のことなのではないか。中心の対義語の一つに「周縁」がある。かつて周縁には否定的なニュアンスが込められていた。しかし、山口昌男的に言えば、周縁には他者性と豊穣性がある。なるほど、中心では味わえないそんな雰囲気が場末に漂っているような気がする。

広辞苑に戻る。「場末は都市にあるもの」と定義されている。都市とは何ぞやと問い始めるとキリがないので、一応、経済的に発達した人口過密地または大勢が外から集まってくる土地としておこう。そうすると、ぼくが生活し仕事をしている大阪市、もっと具体的には、ここ中央区(旧東区地域)は堂々たる都市であり繁華街と断言して間違いない。つまり、どこかに場末が存在する資格を備えている。そして、確かに、場末などいくらでもありそうだ。


ここでいくつかの疑問がわき上がる。広辞苑の定義文中もっとも重要な「中心部」とはいったいどこなのだろうか? 中心部を特定しなければ場末も明らかにならないのではないか? では、都市や繁華街の中心を誰が決めるのか? もっと言えば、特定された中心とその周縁である場末との距離や人の密集度はどのように決まるのか? という問いに答えがあるような気がしないのである。

ぼくの居住する大阪市にはぼくが中心と見なせる地域がいくつかあるが、一般的にはオフィス街でもあり市庁舎も立地する淀屋橋はその一つだろう。また、JR大阪駅をはじめ地下鉄各線や私鉄が乗り入れる梅田も中心部を形成しているだろう。そのいずれの中心の一角を占めながら、周縁に広がる歓楽街が北新地というエリアである。北新地は中心(淀屋橋駅と大阪駅)からわずか数百メートル、徒歩にして56分だが、ここもまた中心に対しては場末なのだろうか。この北新地にも本通りという中心があり、ここから逸れた通りは場末ということになるのだろうか。仮に梅田・淀屋橋を大阪の中心と見なせば、マクロ的には南方面の難波や天王寺も、東方面の京橋や北方面の十三も場末扱いされることになる。

いやいや、場末とはそんな巨視的に取り扱う中心に対する存在などではない。中心も周縁も人それぞれの土地感覚に規定されるはずだ。誰かにとっての「あの店は立地がいい」は、別の誰かにとって「あの店は立地が悪い」なのである。大阪市役所はぼくにとって立地が必ずしもよくはなく、中央区役所の立地のほうが好都合である。どうやら、場末の特徴は人によって「ごみごみしている」とか、「怪しげである」とか、「庶民的」とかで感知されるようだ。他者性というなら、見知らぬ人間と出会うというのもあるだろうし、豊穣性ならば、何でもありというのもあるだろう。

ぼくの仕事場である天満橋の中心は府の合同庁舎あたり。さらには、大川に臨むちょっとした商業エリアだろう。天満橋京町と呼ばれるこの一角、土佐堀通りから南へ少し入ると、名も知れぬ坂がある。桜の木がなければ、ここはパリの裏町風情に見えなくもない。ごみごみしていない、怪しげでもない、特に庶民的でもなく、人とほとんどすれ違わない。ぼくにとっては、ここが場末である。かなりうら寂しい場末である。但し、このあたりの住民は誰も場末感など抱いていないはずである。中心にいると確信していても、別の中心から見ればそこが場末かもしれない。もちろん、場末の中にも中心と周縁のせめぎ合いがあっても不思議ではない。

土佐堀通りから北大江公園へ上がる.jpg

「無用の用」の逆襲

「無用の用」は気に入っている表現の一つ。有用だと思うものだけを残してその他の無用をすべて捨ててしまうと、残した有用なもの自体が意味を持たなくなってしまう。有用なものを生かすために諸々の無用があるわけだ。「有用=主役、無用=脇役」という位置取りだが、主役と脇役はいとも簡単に逆転してしまうことがある。たとえば鶏卵。ある料理では黄身が必要で白身は不要、別の料理では白身のみ有用で黄身はいらない。まあ、タマゴの場合は安価だし、黄身も白身もどっちみち使い道はあるから心配無用だが……。

蒲鉾は板に乗っかっていて、当然板から外して食べる。板なんぞ食べないから作る時点で無用だと言うなかれ。板にへばりついているから蒲鉾なのである。無用な穴をふさいで全体をすり身にしてみたら、たしかにずっしりと重みのある棒状の練り物ができるだろうが、それはもはや竹輪ではない。穴が貫通しているから竹輪なのである。レンコンしかり。そもそも穴がなければレンコンという根菜は存在しない。穴が無用だからどうしても埋めたいと思うのなら、からしレンコンにして食べてもらうしかない。

こんなことを言い出すとキリがないほど無用は氾濫しているし、それらの無用と神妙に向き合えば、存在したり発生したりしているかぎり、そこに有用を陰ながら支える用があることにも気づく。身近にあって、本来無用のものが有用として供されている代表格はオカラかもしれない。あるいは、日々の新聞と一緒にやってくるチラシの類。片面印刷のチラシは裏面をメモにできるという点で無用の用を果たしている。他方、内容にまったく興味のない、両面印刷されたチラシは役立たずか。そうともかぎらない。紙ヒコーキや折り紙になってくれるかもしれないし、何かを包むのに使われているかもしれない。


無用の用が価値ある有用を逆転していることさえある。すでに別のオーナーに代替わりして別の料理店になっているが、二年前まで肉料理を出していた鉄板焼きの店があった。夜に人が入らないので店じまいしたようだが、ランチタイムはそこそこ賑わっていた。正確な値段を覚えていないが、たぶんステーキ定食が1200円前後、切り落しの焼肉定食が800円前後だったと思う。いつ行っても、誰もが切り落しを注文するばかりで、ステーキを食べている人を見たことがない。ちなみに切り落しというのは、もともと演芸場や劇場の最前列の、大衆向けの安い席のことだった。舞台の一部を「切り落して」設けたのである。これが転じて「上等ではなくて半端なもの」を意味するようになった。

さて、ブロック状のロース肉の有用なステーキ部分以外の肉の端っこを切り落す。むろん本体よりも切り落しのほうが量は少ない。しかし、これだけ切り落しに注文が殺到すると、ステーキ用の上等な聖域をも侵さねばならない。そう、無用な切り落しでは足りないから、ステーキ部分を削ぎ落としてまで使うのである。切り落しが主役を脅かす結果、もはや主役に出番はない。ブロックの塊すべてが切り落される。有用あっての無用だったはずの切り落しが堂々たる有用の任を担っているではないか。

ものの端っことは何だろう。それは、いらないものか、美しくないものか、商品価値の低いものか。かつてはそうだったかもしれないが、食べてみれば同じ。切り落しが400円も安いのならそちらに触手は動く。ぼくなどとうの昔にカステラの切り落しに開眼した。濃厚な甘みを好むなら「辺境のカステラ」のほうが絶対の買いなのである。ぶっきらぼうに袋に放り込まれているくらい何ということはない。ところで、割れおかきというのもあるが、よく売れるからといって、わざと割っているわけではあるまい。いや、肉の切り落し同様に、無用の用が逆襲している可能性もあるだろうか。