休日のぶつくさ

「今年のゴールデンウィークのご予定は?」と聞かれ、「どこにも出掛けない。たぶん散歩と思索三昧」と答えたのが先月の下旬。思索三昧などと言っているが、別に大したことを考えるわけではない。考えることと話すことはぼくの仕事の中核だから、休日でも仕事をしていると言えばしていることになる。本を読んだり美術館に出掛けたり散歩をするのは趣味であるが、仕事につながると言えばつながるかもしれない。「いいですねぇ。羨ましいですねぇ」などと言われるが、いいも悪いもない。もう30年以上そうして生きてきた。

連休が始まる前に「ゴールデンウィークはカレンダー通りですか?」とも聞かれ、「そのつもりだけど……」と答えてカレンダーを見たら、見事な飛び石であることがわかった。先月29日から3日間休み、今月2日に一日だけ出社して、3日・4日・5日と3連休。そして、6日に出社すると、続く土・日がまた休みである。誰の仕業でもあるまいが、休日が煩わしい並びになったものである。というような次第ゆえかどうか知らないが、2日と6日を休みにした企業がある。そうなると10連休だ。一ヵ月足らずしか働いていないのに、新入社員にはご褒美過多ではないか。


根は飽き性なのだが、三日坊主の空しさを何度も痛感してきたから、一度決めたことは決めた期間中継続するよう強く意識している。一番果たされない約束は自分との約束である。自分でやろうと決めたが、仮に反故にしても誰にも迷惑がかからない……こんな思いから平気で三日坊主を演じてしまう。「まあ、いいか」が終りの始まりなのである。ところが、こんな人間ほど「継続は力なり」を座右の銘にしているから開いた口が塞がらない。

ぼくのような大した実績もなく権威でもない者がいくら諭しても聞いてくれない。そこでよく持ち出すのが孟母の話だ。孟母がらみの教えは二つある。

一つはよく知られたエピソード、「孟母三遷の教え」である。墓地の近くに住めば葬式ごっこ、市場の近くに済めば商人ごっこ。これでは教育にならぬと学校のそばへ引っ越せば、孟子は礼儀作法をまねた。今なら職業差別沙汰になるが、まあ大目に見ることにして、〈環境と刷り込みの関係〉を読み取ろう。環境要因を抜きにして学びを語ることはできない。

もう一つの教え。実はこちらが三日坊主への直接的な戒めになる。「孟母断機の教え」がそれ。断機の戒めとも言われるが、学業を途中でやめてはいけないという教訓だ。学業だけでなく、いったんやろうと決めたこと全般に通じる話である。この断機の機は「機織はたおり」の機のこと。勉強を中途半端に放棄するのは、織っている機の糸を断ち切るのと同じことだと孟母は言う。


リラクゼーションも捨てがたいし、日頃できない遊びにも打ち込みたい。孟母三遷流に言えば、休日だからこそ環境を変えてみるのは良さそうだ。その一つが旅である。旅がままならないなら、一日の生活環境を変える工夫もあるだろう。ぼくは休日が断機にならぬように配慮する。せっかくの休日だからと緩めすぎては、せっかくの継続的習慣に終止符を打ってしまう。休日だから休めばいいというものではない。休日の過ごし方は実に悩み多いのである。

やめられないこと、続かないこと

一ヵ月ほど前の日経のコラム記事に、劇作家の別役実が随筆に書いた話が紹介されていた。それによると、別役は毎日186回タバコをやめようと考えるらしい。どんな計算でこの微妙な数字になるのか。一日360本吸うのだそうである。ポケットから箱を出し一本取り出すときに「やめよう」と思い、くわえるときにも「やめよう」と思い、火をつけるときにもう一度「やめよう」と思う。一本につき3回やめようと思うのだ。それが60本だから180回。あとは、店でタバコ代を払うときと品物を受け取るときの2回で、これが3箱なので計6回。

一年で67,890回もやめようと考えるのだからすごい。さらに、それだけ考えるにもかかわらずやめないのがもっとすごい。タバコや酒などの嗜好品の常習性は周知の通りだが、やめようとしてやめられない習慣は誰にもある。やめようとかやめたいと思いながら続けてしまう執着力と言うかエネルギーが、続けたいと思いながら続かない対象にはなぜ働かないのだろう。やるぞと決めたストレッチ体操が続かないのに、かっぱえびせんはなぜ「やめられない、止まらない」のだろうか。不思議である。

「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬとあきらめた」という都都逸がある。未練心をユーモラスに紡いでいるではないか。タバコか酒か博打か忘れたが、「やめました ○○○やめるの やめました」というパロディも何かで読んだことがある。ぼくたちは欲望に満ちていて、新たにチャレンジしたいことがあれこれとありそうなのだが、そっち方面は続きにくく、また最初の第一歩が重くて踏み出せない。他方、悪しき習慣と自認していることがなかなかやめられない。「や~めた、真面目に働くの、や~めた」というのはありそうだが……。


このブログで時々取り上げる読書やノート、さらには語学や音読訓練などの習慣形成について、よくコツを聞かれる。習慣形成全般について語る資格はぼくにはない。続けていることよりも挫折経験のほうが多いからだ。夏場になると毎年ヨガを取り入れた経絡体操を3ヵ月くらい朝夕やってみるのだが、秋が深まると億劫になって挫折する。こんなサイクルが数年続いている。その他いろいろ、うまくいかない。

世間では軽々と「継続は力なり」と言うが、毎日5分、一日1ページを甘く見てはいけない。そんなに易々と達成できるなら、この格言の発案者は「継続は力なり」などとは言わず、「継続は誰でもできる」と語ったか何も言わなかっただろう。継続にはある日の一頓挫がつきものである。その一日を例外として処理できれば、継続心を「断続的(切れたり続いたりの)状態」に止めることができる。問題は、その一つの例外が二つ、三つとなって常態化してしまうことだ。つまり、「たまたまできなかったという反省」から「やっぱりできそうもないという信念」への変化が起こるのがまずい。

だから、三日坊主は最初から「継続は力なり」などと力まないほうがいい。いきなり晴天を望むのではなく、「晴れ時々曇り」あたりからスタートすればよろしい。「切れたり続けたりは、何もしないよりもまし」という心得である。以上がぼくなりのコツの薀蓄である。いや、実はコツなどではない。マズローの欲求階層的に言えば、最上位である「自己実現の欲求」などを持たないのが賢明だ。むしろ、最下位の「生理的欲求」にしてしまうほうがいい。そう、トイレに行くように続けるのである。