理由づけできること、できないこと

199519日のノートに、あるテレビ番組の話を書いている。ゲストは画家のヒロ・ヤマガタだった。「ヒロさんは、なぜこのような色づかいをされるのですか?」と聞き手が尋ねた。

自慢するほどの腕ではないが、絵を描くのが趣味の一つであるぼくからするときわめてナンセンスな質問である。この問いに対して、ヒロ・ヤマガタはしばし戸惑ってから、こう返した。

「そんなこと考えたこともない。芸術家なんて誰もそんなこと考えて描いてはいないんじゃないか」。案の定である。「なぜ納豆が好きなんですか?」と聞かれて、「好きだからです」以外にどう答えるべきなのか。「あのネバネバ感がたまらないんです」という答えが欲しいのか。よしんばその答えを引き出したからといって、その理由にたまげたり感心していったいどうなるものでもないだろう。

納豆が好きなのも、ある種の色づかいをするのも、もはや習性というものである。いまさら意識の世界に引っ張り出されてしかるべき理由を述べよと迫られても困るのだ。

誰もかれもが哲学や思想があって何かをしているのではない。何かしていることにつねに理由があるわけでもない。説明できるとかできないのほかに、説明して意味があることと意味がないこともある。ヒロ・ヤマガタがその気になれば、「そうですね、この種の色づかいのきっかけは……」と説明しようと思えばできたかもしれない。しかし、仮に説明したとしても聞き手のアナウンサー、あるいはカメラの向こう側の視聴者にどれほどの意味や発見があるというのだ。

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「沢尻さ~ん、ハワイはどうでしたぁ~?」と尋ねて、芸能レポーターはどんな答えを引き出したいのか。あんたが聞かれたら、立ち止まってゆっくり説明するとでも言うのか。ありえない。質問を無視して通り過ぎるのみである。万に一つ、「よかったです」と返事してもらって狂喜乱舞するはずもない。それは想定内の回答に他ならない。

ヒーローインタビューのあの切なさ、気まずさ、凍りつく空気はどうだ。「いいホームランでした!」とマイクを向けられて、無言でうなずくか「はい」か「ありがとうございます」以外に何があるのか。「ツーアウト、二塁、1点リードされているあの場面。どんな気持でバッターボックスに入りましたか?」 この種のインタビューはいい加減にしてほしい。このくだらぬ問いが、「何とかしようと思っていました」「来た球を思い切って打つつもりでした」などの陳腐な受け答えを招いているのである。

ある種の意思決定が下された事柄については理由が存在するだろう。その理由が予想しにくい類ならば聞けばいい。また、尋ねるだけの価値もあるかもしれない。しかし、何でもかんでも安易に「なぜ」と連発するのは聞き手として失格である。インタビューで5W1Hを押さえるのは、新聞記事を書くのと同様に常套手段である。だが、そのWのうち、Why(なぜ)とHow(どのように)はここぞというときの伝家の宝刀でなければならないのだ。