「なぜおまえはこんなに苦心するのか」

表題は手記に書かれたレオナルド・ダ・ヴィンチのことばである。正確に記すと、「可哀想に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか」だ。前後の文脈からは意図がよくつかめない。ここから先はぼくの類推である。

ダ・ヴィンチが生を受け天才ぶりをいかんなく発揮したのは15世紀半ばから終わりにかけての時代。コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)は、13世紀から続いてきた東方レヴァント貿易の集大成であった。ダ・ヴィンチが一世を風靡した時代、画家や彫刻家のほとんどは十代の頃に工房に属していた。親方の指導のもと教会や有力パトロン(たとえばメディチ家やスフォルツァ家)からの依頼に応じて作品を制作していた。

当時はみんな職人で、まだアーティストという概念などなかった。ダ・ヴィンチは生涯十数作の絵画しか残していない。この数字は、天才にしては寡作と言わざるをえない。ボッティチェリ(7歳年長)やミケランジェロ(23歳年下)は仕事が早かったらしいが、ダ・ヴィンチは絵画以外のマルチタレントのせいか、あるいは生来の凝り性のせいか、筆が遅かった。筆が遅いため納期を守れなくなる。実際、納期をめぐって訴訟も起こされた記録が残っている。世界一の名画『モナ・リザ』も、元を辿れば納品されずに手元に残ってフランスに携えていった作品だ。だから、経緯はいろいろあるが、パリのルーヴル博物館が所蔵しているのである。


手記の冒頭をぼくなりに要約してみる。

私より先に生まれた人たちは、有益で重要な主題を占有してしまった。私に残された題材は限られている。市場に着いたのが遅かったため、値打ちのない残り物を買い取るしかない。まるで貧乏くじを引いた客みたいだ。だが、私は敢えてそうした品々を引き取ることにする。その品々(テーマ)を大都会ではなく、貧しい村々に持って行って相応の報酬をもらって生活するとしよう。

天才はルネサンスの時代に遅くやってきた自分を嘆いているようだ。明らかにねている。しかし、これでくすぶったのではなく、前人未到の「ニッチのテーマ」――解剖学、絵画技法、機械設計、軍事や建築技術など――を切り開いていく。天才をもってしても「苦心」の連続だったに違いない。それにしても、自身の苦心を可哀想にと嘆くのはどうしてなのか。おそらくこれはダ・ヴィンチの生活者としての、報われない悶々たる感情であり、同時に「まともに苦心すらしない愚劣な人たち」への皮肉を込めたものなのだろう。

孤独な姿が浮かんでくる。だが、他方、ダ・ヴィンチは「孤独であることは救われることである」とも語る。ひねくれて吐露したように響く「なぜこんなに苦心するのか」ということばも、「執拗な努力よ。宿命の努力よ」という手記の別の箇所を見ると、多分に肯定的な思いのようにも受け取れる。


ダ・ヴィンチほどの天才ですら、好き勝手に絵を描いたのではなかった。注文を受けて困難な条件をクリアせねばならなかったのである。

誰からも指示されずに、自由に好きなことをしたいというのは自己実現の頂点欲求だろう。しかし、もしかすると、こんな考え方は甘いのではないか。いくつもの条件が付いた高度な課題を突きつけられ、何かにつけてクレームをつけられたり値切られたり……案外、そんな仕事だからこそ工夫をするようになり技術も磨かれるのではないか。どことなく、フィレンツェの工房がハイテクに強い下町中小企業とダブって見えてきた。近世以降、画家たちのステータスが職人から芸術家へと進化したのは、間違いなくダ・ヴィンチの功績である。最大の賛辞を送ろう。但し、天才の納期遅延癖を見習ってはいけない。現代ビジネスでは命取りになる。

来週の月曜日、京都の私塾で以上のような話を切り口に、今という時代のビジネスとアートの価値統合のあり方を語る。塾生がどう反応しどんなインスピレーションを得てくれるのか。ダ・ヴィンチ魂を伝道するぼくの力量が問われる。

「何々屋」の誇らしげなまなざし

昨日は軽い風邪だった。大事をとって在宅勤務とした。体調不良のせいか、集中力に欠けブログも尻切れトンボだった。告白すれば、まだ書き続けるつもりだった。かつての「代書屋」、そしてぼくの提唱する当世「企画修繕屋」と「文書推敲屋」から、実は「何々屋」という話へと展開したかったのだ。あまりにも話が長くなるのでいったん終えた。今日も在宅。昨日の風邪を、やや悪い方向に引きずっている。別の日に書いてもいいのだが、もうアタマの中で話が出来上がっている。


風呂屋、散髪屋、金物屋、駄菓子屋などの「何々屋」が現代人の耳にどう響いているか。見下したようなニュアンスがあるのか。呼び捨てにしてはいけないから「さん」でも付けておこうかという感じか。言っておくが、「さん」を付けても尊敬の念が込められるわけではない。「馬」→「お馬」→「お馬さん」と同様、「風呂屋」→「お風呂屋」→「お風呂屋さん」という順番で愛嬌が増し、可愛く聞こえるだけである。

「何々屋」についてぼくは次のように考えている。かつて何々屋は町内に密着していた。住民は親しみのまなざしで接し、何々屋は誇らしげなまなざしで応じた。さすが職人という、技と個性が見えた。お客さんの無理を聞き、信頼関係が生まれた。何々屋は原則として町内に一職種一軒であった。いや、一職種一人というのが正しい。何々屋は店ではなく職人そのものだったのだ。

それだけではない。何々屋は街並みに風情を添えた。仕立屋、庖丁屋、道具屋などが軒を並べる街には落ち着きがあった。自然に乏しい密集地の路地であってもかまわない。視線の先にある軒先の屋号や看板が、職人のいい仕事ぶりの代名詞であると同時に、絶妙の格好をつけていたのである。

まだある。「エコ」という便利なことばのお陰で環境へのマクロな関心は高まったかもしれない。だが、地球をどうするか以前の身近なエコは、かつて何々屋がお手本を示してくれていた。何々屋は、新品を売ったり注文に応じてくれもしたが、同時に修理屋であり、古物屋としても機能していた。「これはまだ使えるよ」――このことばが商いの節度と矜持を表していた。


ここからは一つの仮説である。商売を承継しなくなった風潮を背景に、便利のみを求める住人が何々屋を潰してしまった。「屋」が「店」と呼ばれるようになり、その「店」が会社組織になった頃から、「町内経済」が狂い始めた。一職種一軒の原則が崩れる。商売人どうしが共生論理から競合論理に走る。かけがえのない職人が消え、いつでも交代可能な人材で店が構成される。「酒屋」は自動販売機を設置する。酒のみならず、商品一般や暮らしの知恵にまつわる会話を交わさなくなった。何々屋が消え外来種の資本が幅をきかせるようになり、地域社会の生態系に狂いが生じ、まったく異質のものになってしまった。

フィレンツェの「蛇口屋」には何百何千という、中世から今日までの水道蛇口が在庫されていた。懐古的な蛇口のモデルに固執する客も客だが、品揃えしている職人も職人である。イタリア半島の踵にある街レッチェで仕立屋をガラス越しに覗いていたら、「ウゥ~、ワン!」と犬のマネをして睨みつけられ、あっちへ行けと手で追われた。偏屈なオヤジなんだろうが、眼鏡の奥の目は誇らしげに笑っていた。何々屋の復権。まずは自分自身からなのだろう。