20世紀 vs 21世紀

20世紀vs21世紀.jpg21世紀を間近に控えたある日、当時主宰していた《談論風発塾》の塾生たちに「20世紀と21世紀のキーワード」を対比的に列挙してもらった。全員の語句をぼくの一存で座標に配置したのがこれ。

「シンボリック=象徴的」と「ディスクリプティブ=説明的」を縦軸に、「ポジティブ=肯定的」と「ネガティブ=否定的」を横軸にとってみた。まだ21世紀に入って十余年なので速断は禁物だが、このマトリックスを見ながら、近未来の読みと時代比較の甘さを痛感する。
当時を振り返れば、ぼくも偉ぶるわけにはいかない。五十前ゆえに未熟だったという意味ではない。今も十年という時代区分はおろか、来年のことも見通せたものではない。もっと言えば、先月と今月の動態変化すら比較するのに苦労しているありさまだ。
20世紀はどんな世紀だったのか……。20001129日のノートにぼくはキーワードを連ねている。
 
言語の世紀。混沌の世紀。高速の世紀。欲望の世紀。状況の世紀。新文明の世紀。文化敗北の世紀。虚構の世紀。アルファベットの世紀。もめごとの世紀。高密度の世紀。ストレスの世紀。疎外の世紀。概念の世紀。リトマス試験紙の世紀。ハツカネズミの世紀。左脳の世紀。マゾの世紀。詐欺師の世紀。地球危機の世紀。プラマイゼロの世紀。
塾生のキーワードに首を傾げたように、ここにも浮足立った術語が挙がっている。それでも、それぞれの語句には百年間をマクロに振り返って凝縮させようとした理由がなかったわけではない。

キーワードを並べ立てたあと、次のような大胆だが、向こう見ずな一文も書いている。
 
20世紀は「左脳支配」の世紀であった。19世紀までのアナログ的(右脳的)歴史が一気にデジタル化したのである。今やすべての現象と活動は「0」と「1」で解析され表現される。デジタルとは結果主義・効率主義であり、刹那的である。偏差値教育に代表されるように、左脳人間が学歴で幅をきかせた時代であった。
21世紀は「異種脳分業」の世紀になるだろう。従来の右脳、左脳、間脳などに加えて、ロボット脳、芸脳、無脳、その他新種の脳が分業し棲み分けていく。そう、仕事のみならず、アタマの使い方も分業化してしまうのである。それゆえに、裏返しとして、右脳と左脳をバランスよく使える人間へのニーズが高まるだろう。
いくつになっても、過去の推理推論には恥ずかしさがつきまとう。未来予測はノストラダムスのように差し障りなくしておくのがよさそうだ。ぼくたちも専門家の卓見や洞察力に軽はずみに乗らないほうがいいのだろう。
 
先のノート、さらに次の二つの段落が続く。
 
20世紀は「人差し指」の世紀でもあった。電話、スイッチ、パネル、家電製品など、ありとあらゆるものがワンタッチ駆動化されたので、人差し指が大いに活躍した。この指は、文字通り、人に指図もして組織の階層を作り、他人を非難するためにも活躍した。
21世紀は今のところ「親指」の世紀になりそうだ。携帯電話のメールが登場して、一気に親指が活躍し始めた。親指姫がそこらじゅうにたむろしている。彼らはエレベーターのボタンをも親指で押し、スイッチのオン・オフにも親指を使いかねない。そして、このことは「器用」から「不器用」への変化でもある。英語で“all thumbs”(すべて親指)といのは「不器用」という意味だ。
このメモのわずか数年後、スマートフォンが普及し始め、ぼくの親指論はもろくも崩れた。また人差し指が復活し、前世紀の活躍をしのぐ勢いである。
 
20世紀 vs 21世紀」というテーマで書いたが、十年ちょっと前の分析・洞察への自己批判であり反省であった。済んだことではあるし、誰かに実害を与えたわけでもない。けれども、済んだことだからこそさっさと水に流さず、おごりたかぶりを戒めるために時々赤面してみるべきだと思うのである。人というものは先を読めない、いや、過去すらまとめ切れないことを時々確認するために。

脳と刷り込み

口も達者でアタマの回転もそこそこいい「彼」が、その日、人前で「あのう」や「ええと」を連発していた。宴席に場を変えて軽いよもやま話をしていても、なかなか固有名詞が出てこない。だいたい男性の物忘れは、「名前を忘れる→顔を忘れる→小用の後にファスナーを上げ忘れる→小用の前にファスナーを下ろし忘れる」という順で深刻度を増す。だから、名前を忘れるのは顔を忘れるよりも症状が軽い。それに、人の名前を忘れるくらい誰にだってある。

しかし、彼の場合、短時間に複数回症状が見られた。言及しようとしている人物の名前がことごとく出てこないのである。「ちょっと気をつけたほうがいいよ」とぼくはいろいろと助言した。最近、このようなケースは決して稀ではなくなった。ぼくより一回りも二十ほども年下の、働き盛りの若い連中に目立ってきているのである。幸い、ぼくは年齢以上に物覚えがいいし物忘れもしない。ただ、脳を酷使する傾向があるので、「来るとき」は一気に来るのかもしれない。

別の男性が若年性認知症ではないかと気になったので、名の知れた専門家がいる病院に診断予約を取ろうとした。ところが、「一年待ち」と告げられたらしい。一年も待っていたら、それこそ脳のヤキが回ってしまう。科学的根拠はないが、ことばからイメージ、イメージからことばを連想するトレーニングが脳の劣化を食い止めるとぼくは考えているので、そのようなアドバイスをした。簡単に言うと、ことばとイメージがつながるような覚え方・使い方である。但し、ことばとイメージのつながり方は柔軟的でなければならない。


習慣や知識を短時間に集中的に覚えこんでしまえば、その後も長い年月にわたって忘れない。動物に顕著な〈刷り込みインプリンティング〉がこれだ。偶然親鳥と別れることになったアヒルやカモなどのヒナが、世話をしてくれる人間を親と見なして習慣形成していく。人の場合もよく似ているが、刷り込みは若い時期だけに限って起こるわけでもない。たとえば、中年になってからでも外国語にどっぷりと集中的に一、二年間浸ると、基礎語彙や基本構文は終生身についてくれる(もちろん、個人差も相当あるが……)。

刷り込みはとてもありがたい学習現象である。このお陰で、ある程度習慣的な事柄をそのつど慎重に取り扱わなくても、自動的かつ反射的にこなしていくことができている。要するに、いちいち立ち止まって考えなくても、刷り込まれた情報が勝手に何とかしてくれるのだ。だが、これは功罪の「功」のほうであって、刷り込みは融通のきかない、例の四字熟語と同じ罪をもたらす。そう、〈固定観念〉である。刷り込まれたものがその後の社会適応で不都合になってくる。

あることの強い刷り込みは、別のことの空白化だということを忘れてはいけない。博学的に器用に学習できない普通人の場合、ある時期に世界史ばかり勉強すれば日本史の空白化が起こっている。昨日瞑想三昧したら今日は言語の空白化が生じる。ツボにはまれば流暢に話せる人が、別のテーマになると口をつぐむか、「あのう」と「ええと」を連発するのがこれである。どう対処すればいいか。自己否定とまでは言わないが、定期的に適度な自己批判と自己変革をおこなうしかない。

「五十歳にもなって、そんなこと今さら……」と言う人がいる。その通り。固定観念は加齢とともに強くなる。だから、ことば遣いが怪しくなり発想が滞ってきたと自覚したら、一日でも早く自己検証を始めるべきである。