小なるものへの回帰

このブログではカフェの話を雑文で綴っていて、少し前に岡倉天心の『茶の本』に触れた。原著は明治時代に英文で書かれている。初めて読んだとき、茶とワインとコーヒーとココアの差異的描写がえらく気に入った。同書には、よく知られた別の名言がある

「おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大をみのがしがちである」

自分はこれができる、あれもやってきた、そして他人がすごいと褒めてくれもする。しかし、たとえすごくて偉大であるように思えても、たかが知れている、そんなものはまだまだ小さいことなのだ。こんなふうに自覚できない者は、他人に対して逆のことが見えない。つまり、あいつは大したことはなく、やっていることも小さいことばかりだと表層だけで評価して、深層に潜むすごいところに気づかない。自分の過大評価、他人の過小評価。人はともすれば不遜な自惚れに酔いしれる。困ったものだ。

これとは逆のコンプレックスを人は持ち合わせる。「隣りの芝は青い」がその典型を言い表している。「他人のものは何でもよく見えてしまうこと」の喩えだが、これも別の意味で理解不足、事実誤認にして、彼我の状況や現象を見抜けていないことが多い。絵を描いたら先生に褒められ、「もしかしてぼくはピカソになれるかも」と思った。この例などとても教訓的だ。「バカも休み休みに言え。お前がピカソになれるはずがない」と自惚れの芽を摘むか、「小さなお前の中には潜在的ピカソがいる」と持ち上げて育てるか―微妙である。「小さなドングリの実にはバーチャルな樫の木がある」という考え方、教え方をぼくは好む。


偉大と思えたものが実は小さくて、取るに足らないほどちっぽけに見えたものが実はすごかったという思いや体験は身に覚えがあるだろう。大なるものを追いかけたが、そのお粗末さにがっかり。ちなみにわが国にはがっかり名所なるものがあるそうで、高知のはりまや橋、札幌の時計台などが上位にランクされている。落胆も感動も人それぞれだから一概に決めつけることはできないが、「名物にうまいものなし」はある程度正しく、ブランドや評判によって鑑定眼は曇ってしまうものだ。

「小なるものに大なるもの」を見いだしたときの喜びは格別である。いつぞやテレビでミニチュアの農機具や工具を作る鍛冶屋を紹介していた。いや、その番組だけではない。世間には小なるものに飽くなき視線を向ける情熱の系譜がある。ぼくはあのミニチュア工芸品を見て、その達人の、超のつく技に度肝を抜かれた。ピラミッドや万里の長城に匹敵する構想とエネルギーとテクノロジーではないかと感嘆しきりだった。

小なるものは来るべき時代の生き方を暗示している。小さな仕事、雑用、ちょっとした会話、ひいては腹八分目や資源節約など。何でもかんでも規模を拡大して破綻しては、結局縮減して小さく生きることの知恵を取り戻す。うまく機能し始めると調子に乗って、またぞろ貪欲に火をつけて大なるものへと指向してしまう。大都市、大組織、大事業……そんなにいいものなのだろうか。煽り立てられさえすれば、能力に疑問のつく人間だってその方面に向かうだろう。小なるものの見直しには知恵と賢慮を要する。「大きいことはいいことだ」はもう終っているはずなのである。