体験とこだわり

こだわりは「拘り」と書く。漢語的に表現すると「拘泥こうでい」。近年このことばは、たとえば職人らの固有の思い入れを良好なニュアンスで使うようになった。スープにこだわるラーメン店、秘伝と称してタレにこだわる鰻屋、卵の鮮度にこだわるパティシエなど、とりわけ食材の品質やレシピに関してよく用いられる。

以前、生パスタにこだわるイタリア食堂のオーナーシェフがいた。ところが、場違いなアニメのフィギュアが飾ってあって、「店に合わないねぇ」とつぶやくと、「でも、好きなんですよ」と強いこだわりを示した。生パスタへのこだわりはぼくにも便益があるが、フィギュアは趣味のわがままな発露に過ぎない。このタイプに「こんな雰囲気じゃ足が遠のくよ」と冗談の一つでもこぼすと、「じゃあ、来なくていいですよ」と言いかねない。実際、軽めの皮肉だったのに、彼はぼくに対してあらわに不快感を示した。当然ぼくも不快だから、行かなくなった。

こだわりとは、他人から見ればどうでもいいことに自分一人だけがとらわれ、そのことを自画自賛よろしく過大に評価することだ。いいだろう、ここは一つ譲るとする。それでも、自慢を秘めておくのがプロフェッショナルではないか。こだわりについて長々と薀蓄してもらうには及ばないし、それなくして物事が成り立たないかのように吹聴するのは滑稽である。


ビニール傘.jpg

取るに足らないこと、たとえばビニール傘にこだわる男がいる。仮にNと呼んでおく。ある雨の日、彼とカフェに行った。カレーランチを注文したあと、Nが小さなテーブルの角にビニール傘の柄を掛けているのに気づいた。カレーがテーブルに運ばれ、テーブルが狭くなる。傘もぶら下がっているから余計狭苦しい。案の定、柄が滑って床に傘が倒れた。「きみ、傘立てに置きなさいよ」とぼくは諭した。「傘立てに置くと持って行かれるんです。過去に何度もあったんですよ」と言いながら、Nは気の進まない顔をして傘立てに持って行った。
 
別の日。また同じカフェに行った。大雨だった。この前のことがあるから、Nは入口で渋々傘立てにビニール傘を入れた。食後お勘定に立ち、ぼくが自分の傘を手に取った直後、Nは「あ~あ、やられた」とつぶやいた。その情けないつぶやきは自分にではなく、明らかにぼくに向けられていた。「だから、テーブルの手元に置くことにしているんですよ」と言いたげだ。
 
「きみ、ビニール傘なんてみんなでシェアしているようなもんだから、自分のを持って行かれたら、別のを持って行けばいいじゃないか」とぼくは言った。こんな大雨の日に手ぶらで来る人などいない、だから、ビニール傘を間違えても足りなくなることはないんだ……そこまで執着するなら、自分の傘にシルシを付けるか名前を書いておけばいい……と言いながら、こう言わねばならない自分がちょっと情けなくなった。
 
Nはビジネス上の大事にはあまり引っ掛かることはなく、むしろパーソナルな些事のほうに強くこだわる。長い人生で傘を間違えられたのは二、三度に過ぎないだろう。それでも、確率のきわめて低い体験が刷り込まれて、みっともないこだわりを露わにしてしまう。些細なことに囚われたりこだわったりしていては人間そのものが小さくなる。百や千に一つの、そんなつまらぬ体験などさっさとリセットしてしまえばいいのだ。

批判精神と自己検証

批判に弱い人間と付き合っていると疲れる。棘を抜き、辛口表現をオブラートで包む必要があるから。いつも顔色をうかがい傷つけまいと差し障りのない寸評でお茶を濁すことになる。疲れるだけならまだ我慢するが、こんなうわべの物分かりの良さを演じていると、こっちの脳が軟化してしまう。付き合いが続くものの、お互いに成長できる見込みはまったくない。

以前アメリカのコミュニケーションの専門家が書いた本を読んで愕然としたことがあった。「部下が出来の悪いレポートを持ってきた。あなたはどうコメントし、対応するか?」というような設問がある。四択。「こんなもの話にならん!」や「もう一度やり直しだ!」の類が最初の三つの選択肢になっており、四番目が「きみは普通この種のレポートは上手だが、今回はちょっと残念なところがある。一緒に考えてみようじゃないか」のようなコメント。著者はこれを正解としている。優しさにもほどがある。

「きみ」という部下がこの種のレポートが普段から下手だったら、どうするのか。「ちょっと残念」も「とても残念」も採択できないという点では同じだ。こんなところに「物は言いよう」などという法則を適用するのは場違いなのである。ぼくも「ダメ! やり直せ!」には与しない。自力でやってダメだった人は、しかるべき助言もなしに再挑戦してもたいていダメである。だから「一緒に問題検証すること」には賛成だ。けれども、プロフェッショナルどうしなら、少しでもダメなものを褒めてはいけないのである。生意気なことを言うようだが、白熱教室のマイケル・サンデルの設問やハーバード大学の学生の答えにも同種の骨の無さを感じて情けなくなる。


共感と賞賛し合うだけの甘い関係を求める人たちが少しずつぼくの回りから減っていく。寂寞感に耐えかねないなどということはないから、去る者を追わない。しかし、よく考えてみよう。評価してもらうことと批判されることは二つの別のことではない。弱点や問題点を指摘され、納得すれば反省して対策を立てればいいだけの話だ。批判精神が横溢する関係に身を置くようにすれば、仮に批判者が不在でも自己チェックする習慣が身についてくる。自己検証能力は希少なヒューマンスキルの一つなのである。

事実認識、知識、意見、価値観、方法、生活習慣・態度、人生観、人間性・人格……批判の対象はいろいろである。事実誤認を指摘され意見を批評されるのはいいが、矛先が人生観や人間性に向けられるとグサッとくる。しかし、対象などどうでもいい。要は、批判者の批判行為が善意か悪意か、助言か非難か、啓発か否定かをよく見極めればいいのだ。空砲と実弾の区別がつかない鈍い感覚こそを大いに自省すべきだろう。

別に硬派を気取っているわけではない。ある人にとって軽いことが、別の人にとって重いことくらい百も承知である。ある人は批判を受け止めるし、別の人は批判を聞き流したり苛立ったりする。プライドなのか別の何かがそうさせるのかわからないが、批判の負荷に耐えられなければ高みに到ることなど望めないだろう。リーダー側に立ち始めたら、誰かからの批判機会は当然減る。ここを境にして裸の王様度が強くなる。だからこそ、その時に備えて日頃から自己検証力を高めておかねばならないのである。自分が自分に一番辛い点数をつけるということだ。最近のリーダーを見ていると、自画自賛が過ぎるとつくづく思う。ちょっとハードワークするたびにマッサージや温泉やご馳走などのご褒美とは、自分に甘すぎるのではないか。

大阪人の悪しき自画自賛

挑発的に書きたいと常々思っていたテーマである。大阪人の所作や弁舌に独特のおかしみがあることをひとまず認めておこう。テレビ番組『秘密のケンミンSHOW』でも毎回取り上げられるので、大阪人の生態は全国的にもよく知られつつある。聞くところによると、いよいよ大晦日(関東では元旦)には、みのもんた直々の大阪体感ツアーが放映されるらしい。

仕事柄日本各地に出掛けるが、テレビで見た大阪・大阪人の真偽を確かめられる。「大阪の人って、ほんとうにあんなふうなんですか?」と。「誇張はされているけれども、実体から遠からず」と答える。しかしだ、テレビ画面の向こう側にいる大阪人を「お茶目な対象」として遠巻きに大笑いはできても、実際に彼らと至近距離内で接した瞬間、あなたの顔から笑顔が消えるに違いない。


大阪部族
その昔、大阪はアキンド、ヤクザ、ヨシモトという三大土着部族で構成される多人種都市であると、まことしやかに語られていた。そんなバカなことはないが、他の少数部族に目立つ余地がなかったことは事実である。ちなみにぼくの両親は大阪生まれだが、祖父・祖母の代になると、広島、京都、京都、奈良である(ぼく自身はマイノリティと自覚している)。なお、メジャーな三大部族にしても純血種はほとんど存在していない。知り合いにはいずれか二部族のハーフか、三部族すべての混血が多い。さる東京の知識人は「大阪土着民は日本人ではなくアジア人」という説を唱えている。

愛郷精神
大阪部族は4月から10月にかけて虎に熱狂するが、この季節的愛郷精神など可愛いものである。何をおいても問題なのは、オバチャンやコナモンなのではなく、オバチャンをはじめB級名所・B級グルメを年がら年中必死に熱弁する「ステレオタイプな人々」なのである。彼らには大阪の正しい実像が見えておらず、「オモロイ」というコンセプトを唯一の頼りにして土着風土と衣食住を偏愛する。昨今、大阪府も大阪市も観光行政に力を入れつつある。このことは評価できるが、クールに大阪の長所・短所を見てもらわないと困る。グローバル視点からするとあまりにも滑稽なことを、あまりにも本気で考え、おぞましくも本気でやろうとしているのだ。

観光資源
お願いである。どなたか権威筋の方は正直に語ってほしい、「大阪には胸を張れるような観光資源はない」と。この謙虚で控え目なスタンスから独自の観光哲学が生まれる。江戸時代末期の風情ある浪速百景を根こそぎ壊しておいて、今さらセーヌ河やヴェネツィアを真似ようとするのは虫がよすぎる。「光を観る」のが観光ならば、どこにその光とやらがあるのか。キラキラコテコテのミナミ界隈のネオンか、はたまたメタリックな大阪城か(世界遺産の姫路城と比較すれば、たしかにオモロイかもしれない)。「大阪のオバチャンを観光資源にしよう」と提案する、とんでもない錯覚に陥っている知識人もいる。「見ず知らずだが、
咳き込んだ人にアメちゃんを配り、デパートや高級店で商品を値切り、豹柄を着て日傘を立てた自転車に乗るオバチャン」。そんなものが観光資源になるわけがない。海外からの観光客数一位と二位のフランスとスペインにそんなオバチャンがいたら、誰も寄りつかないだろう。

食い倒れ
B級グルメの食べすぎで倒れた?」と言われかねないから、くいだおれ太郎の引退を絶好の機会として、「食い倒れ」ということばを死語にしてしまおう。大阪発のグルメ番組をご覧になればいい。「焼肉→串カツ→たこ焼き・お好み焼き」をローテーションで放送している。「大阪の味は世界でも通用する」などとよくも平然と語れるものである。観光に来たから食べるのであって、どこの国の人もわざわざ自国でたこ焼きに食指を伸ばさない。断言するが、蛸料理は未来永劫世界のスタンダードにはならない。コナモン大阪と言うけれど、欧米はみんな粉ものではないか。パン、パスタ、ピザ、クッキー、パイ、ケーキ……。まったく差別化などできていない。敢えて言えば、大阪食文化はコナモンなのではなく、ソース味が特徴なのだろう。何を食べてもソース味。濃い味付けは食の文化度に「?」がつく。


大阪および大阪人に悪態をつくと、「そんなに気に入らんのやったら、出て行ったらええがな!」と誰かが言ってくる。そう、幼稚なワンパターン反駁である。

大阪を魅力ある街として再生したいのなら、観光客と住民双方の視点で見るべきなのだ。大阪という受け皿から見ているかぎり、いつまでたっても悪しき自画自賛を繰り返すばかり。オバチャン、大阪城、コナモンに罪はない。それらを偏愛し誇張することが、大阪の像を歪めていることに気づこう。ステレオタイプな大阪を浮き彫りにすればするほど、魅力ある街へのチャンスが遠ざかることを忘れてはならない。