読むことと書くこと

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年が明けて三週間。かなり遅めの「初ブログ」になってしまった。書けなかったわけではないが、結果的には書かなかった。考えてばかりいてはいけないと思う。考えようとして考えられるケースはめったになく、書くことによって思考を誘発せねばならないとあらためて痛感した。というような理由から、本稿の「読むことと書くこと」について書こうと思った次第。
 
オフィスの一角に蔵書の一部を引っ越しさせようと思い立ってから一年近く経つ。そう思いついてからも本を買い漁ってきたので、自宅の書斎はもうパンク寸前になっている。間に合わせの片づけをしてはみたが、破綻は時間の問題である。これまでの蔵書から何百冊かセレクトし、それにこの一年買い集めてきた書物を加えて、3月末までに「文庫」を作るつもりだ。
 
さて、写真は「古本初買い」の13冊。すべての本を完読などしていないが、ざっと目を通したところでは、脳内に手持ちの「星々」と本の「星々」とを愉快な線で結べそうなものがある。独自の星座が見えてきそうだ。実社会に出た人間にとっては、読書という行為は書物内情報の自分への移植などではない。試験でチェックされることもない。忘れてしまってもいいし、どうしても覚えたければ再読すれば済む。読書は自分を高める触媒でありヒントなのである。

それでもなお、自力で考えることのほうが重要であって、読書はその補助にすぎない。本を買って読むことなど威張れた話ではなく、やむをえない行為だと思っておくのがいい。ぼくにとって読書は「道楽」だ。道楽だから関心のあるなしにかかわらず、ピピっと縁を感じたらとりあえず買っておく。買って気が向いたら拾い読みする。もちろん、しっかり読むものもあるが、知的刺激を楽しむことに変わりはない。何かの役に立てようなどという下心を捨ててこそ、じわじわと知の枠組みが広がっていく。
 
読むこととは対照的に、書くことは思考を触発し起動させる「闘争」である。ぼくたちは腕を組んで考えているようで、実は思考と程遠い行為であることがほとんどだ。時間を費やしてはみたが、結局は考えていなかったということが後でわかる。おぼろげな心象を言語で表現してみる、あるいはわけのわからぬまま書いてみることによって思考が具体化し知識になってくる。要するに、「書かなければ何も解らぬから書くのである」(小林秀雄)。
 
プロの著述家の話をしているのではない。書いて初めてわかることがあり、書くことによってのみ脈絡が生まれ断片的な知識が統合されることがある。ぼくの周辺に関するかぎり、若い人たちは書かなくなった。一過性の会話で饒舌に語ることはあっても、書かないから考えも浅く筋も通らない。だから、書かない人に会うたびに書くことを強く勧める。どうせ書くなら、ツイッターの文字数程度ではなく、原稿用紙二、三枚単位で書きなさいと言う。書くことの集中は読書の精読にもつながることは明らかなのである。

大差のようで僅差、僅差のようで大差

今週金曜日に第2回の書評会がある。残念ながら、ぼくが取り上げた本の書名は現時点で公開できない。少しだけ紹介すると、「350万冊の蔵書がある図書館」の話が出てくるくだりがある(ちなみに国会図書館はこの倍数あるそうだ。拙著の二冊も収めてくれているらしい)。今日は、この図書館の話から触発されたぼくの連想を綴ることにする。

この天文学的な蔵書数を分母に見立ててみる。一冊読んだ時点で350万分のの知を得るというわけだ。奇跡的な一日一冊という超人的読書家は想定しない(だいたい超人なら本など読まなくていいだろう)。現実的に考えると、週に一冊読む人は熱心な読書家であり、しかもしっかりと精読している可能性すらある。年に50冊を70年間続けると、生涯読破本は3500冊になる。これは驚嘆してもいい数字だと思う。さて、もう一人想定しておく。読書はあまり好きではないが、年に一冊くらいなら読むという人。読書人生70年として70冊になる。

偶然にして暗算可能な数字になったが、念のために電卓ではじいてみる。読書家は当該図書館の蔵書の0.1パーセントの知を獲得した。もう一方のあまり読まない人で0.002パーセントである。少々乱暴だが、小数点以下切り捨てなんてことを適用すると、いずれもゼロになってしまう。図書館をビュッフェスタイルのホテルレストランにたとえれば、世界各国から選りすぐった百種類の料理を出したところ、二人とも一種類の料理の匂いだけを嗅いだだけだった――そんな感じである。二人に歴然とした差はない。森羅万象の知の前では、よく読んでもあまり読まなくても同じようなものなのだ。


すべての人類は、ありとあらゆる書物に対して「ほとんど非読・未読の状態」に置かれている。みんな「読んだ」とは言うが、まさか「読んでいない」とは吹聴しないだろう。生涯、万巻の書など読めやしないのである。知というものは、よく究めても全知のパーセントにも満たない。そういう意味では、人間はみんなそのパーセント未満の知の世界にあって僅差でしのぎ合い折り合っているのだ。格差社会とは無縁の、平等な世界に見えないこともない。

しかしながら、察しの通り、以上は都合のよい推論である。実社会では僅差のような知の格差が大差となって表れる。なぜだかわかるだろうか。上記の3500冊氏と70冊君を比較する時、わざわざ分母を350万冊にする必然性などない。つまり、二人とも読んでいない大多数の書物について両者は知の多寡を競うことなどできないのだ。両者の読んだ本が重複してようがしてまいが、3500冊氏が圧倒的優位に立っていることは容易に想像できる。

神や観音や天才を引き合いに出したら、みんな同じ知力になるだろう。この視点では、「知っていること」と「知らないこと」は大差なようで僅差なのだと謙虚に自覚しておく。しかし、現実は二人なりグループなりの、当面のメンバー間での「知っていると知らない」が尺度になる。そこでは、紙一重が知らず知らずのうちに大差になってくる。小さな知識をゆめゆめバカにしてはいけないと、これも謙虚に自覚しておく。言うまでもなく、無知のままではいずれの謙虚な自覚にも到ることはできないだろう。