語るべきを語らざる罪

「連れ立って映画を見に行った父と娘が、浮かぬ顔で帰宅した。画家である父は、ピカソの生活を写した映画が見たかったが、娘にはつまらぬだろうと思いやり、娘に向きそうな感じの映画に誘った。父がその映画を見たいのかと察した娘は、内心つまらないのを我慢してつきあってきた。ことばを抑制し、思いやりだけにたよって、双方が浮かぬ顔という結果になったのだった。」

もう34年も前に書かれた『失語の時代』(芳賀綏)からの引用である。「ものを尽くして言うべきにあらず」という表現美徳観が日本人の誰にも少なからず刷り込まれている。対照的なのが古代ギリシアで、「人間はロゴスをもつ動物である」と言われていた。ロゴスは多義性の強いことばだが、根源には「ことわり」がある。この伝統を継ぐ西洋社会では、ことばと理(理性や論理)はつながっている。いや、一体である、というのが正しいだろう。

文脈を察したり、行間を読んだり、はたまた言外の言を汲んでやったり……。わが国では聞き手が、ことば少なにつぶやく相手に対してずいぶん物分かりのよい態度を取る。この聞き手側の態度は、自分が話す側に立つときに「貸し」として作用する。これにて、ことば少なの貸借関係、つまり、甘えを許容し合う持ちつ持たれつのコミュニケーション関係の一丁上がり。小説の世界じゃあるまいし、そんな甘えの構造で成り立っていていいのだろうか。ことばによって分かり合おうとする努力を重ねない者が、文学世界の沈黙の妙を味わえるはずもない。


ロゴスを強調すると、「あいつは感性のない奴だ」と決めつけるところに、アンチロゴス派の言語理性の危うさが露になる。ロゴスもパトス(感性・情緒)も一人の人間に共存している。ロゴス嫌いに感性豊かな人間はきわめて少ないのだ。ぼくは若い頃から年長のロゴス嫌いと戦ってきた。「生意気で屁理屈の強い青二才」と言われ続けてきた。たしかに今もその面影は残っているかもしれないが、その抗戦姿勢を貫いたことによって少なくともロゴス嫌いほど馬鹿にならずに済んだと思っている。

思うところに素直になって語り始めるしかないではないか。ある会合があって、手伝いをして欲しければ、「早めに来てください」と言えばいい。それなのに、無理して「会合は午後6時開始」とだけ告げて心に一物を残すことはない。たしか夏目漱石のエピソードだったと思うが、「引越しすることになった。手伝ってくれるなら昼、飯だけ食うなら夕方にお越し願いたい」という手紙を仲間に出した。この文面を読めば、昼に行くしかない。エスプリのきいた「語るべきを語る」一つの方法である。

物言わぬ風土にあって、それなりの人物はちゃんと物を言っている。「口は災いのもと」や「物言えば唇寒し秋の風」というアンチロゴスにしても、それらが金言として今日に残ったのは、言として形にしたからである。ロゴス派であろうとアンチロゴス派であろうと、無言で睨み合うわけにはいかない。語るべきを語らざる姿勢からは何も生まれない。それどころか、誤解という罪を犯してしまう。 

ちょっと言い過ぎた。誤解は必ずしも罪ではないかもしれない。しかし、誤解は、美しくて味わいのある終幕になることもあれば、修復不可能な悲惨な結末を迎えることもある。ただ、どちらにしても誤解がつきものであるならば、黙して生じる誤解よりも、言を尽くして招く誤解のほうをぼくは取るし、そうしてきた。語った言を拠り所にして誤解をほどくほうに希望をつなぎたい。