「偽りを語るなかれ」

もう二年半前になるが、本ブログで嘘について集中的に書いたことがある。ギャグのようなもう少し嘘の話嘘つき考アゲイン性懲りもなく「嘘」の、堂々(?)たる四部作。久しぶりにさっき読み直してみた。自画自賛とのそしりを覚悟して言う、結構おもしろかった。

人は嘘をつく。但し、嘘をつくという理由だけで、やみくもに「嘘つき」呼ばわりできない。嘘つきとは「常習の確信犯」のことである。困った挙句に時々小さな嘘をつくぼくやあなたは彼らの同類ではない。嘘も方便という常套句の力を借りれば、「お似合いですよ」などは愛想混じりの嘘だから許容範囲だろう。但し、可愛げのある嘘も正当化し続けていると、可愛げがなくなるから要注意だ。

それにしても、人はなぜ嘘をつくのか。詐欺師は騙すことによって利を得ようとする。ぼくたちの場合は、だいたい都合が悪くなって嘘をつく。都合が悪い理由のそのさらなる理由は千差万別だろう。今の時期、嘘と言えば「八百長事件」を連想してしまうが、それはまた別の機会に取り上げよう。今日のところは、見栄や執着心と嘘との関係である。タイトルの「偽りを語るなかれ」は6世紀中国の学者、顔之推がんしすいの言とされる。


不可抗力によっても強いられる有言不実行とは違って、虚言は多分に意図的である。期限や約束破りは結果として偽ったことになる。愚かしいことに、その偽りをカモフラージュするために嘘を上塗りする。考えてみれば、都合を良くしようとする点では利を得ようとする詐欺師とあまり変わらないのだ。孫引き参照になるが、中村元の『東洋のこころ』に次のような引用がある。

「真実であるようだが、虚偽であることばを語る人がいる。そういう人はそれゆえに罪に触れる。いわんや嘘を語る人はなおさらである。」
(『ダサヴェーサーリア』75

「この世で迷妄に襲われ、僅かの物を貪って、事実でないことを語る人、――かれをいやしい人であると知れ。」
(『スッタニパータ』131

さて、嘘には〈偽薬効果プラシーボ〉があると思う。嘘も方便を足場にして毎日おだてているうちに、下手が上手になったり弱者が強者に変わったりすることもある。逆に言えば、まことの人が何かの拍子で舌に嘘を語らせ、悪しき口業くごうを繰り返すようになるうちに、「虚人」に成り果てることだってありうるだろう。

人はなぜ嘘をつくのか。先の書物で中村元は言う、「それは何ものかを貪ろうとする執著しゅうじゃくがあるからです」。執著、すなわち「こだわりの心」。何にこだわるのか。見栄にこだわり、やがて見栄が転じて虚栄となる。不完全な人間のことだ、非を認めずに我を通そうとすれば、嘘の一つもつかねば辻褄が合わなくなるだろう。嘘をつかない処方は簡単だ。我を引っ込めて非を認めればいいのである。

理屈を超えるひととき

出張が10日間ほどない。この間に研修や講座のコンテンツづくりとテキストの執筆編集をすることになる。先月の中旬から5本同時に取り掛かってきた。完全オリジナルが3本、あとの2本が編集とバージョンアップ。だいぶ仕事がはかどり、残るはオリジナルの2本。テーマは「東洋の古典思想から仕事をメンテナンスする話」と「問題解決の技法と知恵」の二つだ。自分で選んだテーマとはいえ、いずれも難物。もちろんわくわくして楽しんでいるが、理の世界につきものの行き詰まりは当然出てくる。


こんな時、わざとテーマから外れてみることにしている。完全に外れるということではなく、テーマを意識しながら、敢えて迂回してみるのである。迂回の方法にはいろいろあって、読書で行き詰まったら人間観察に切り替える。構成がうまくいかなかったら、出来上がったところまでを一度分解してみる。文字通りの「遠回り」もしてみる。

オフィスの近くに寺があるのだが、最近は反対方面にランチに行くことが多い。しかし、いったん寺の前まで出てから裏道を通ってお目当ての店に行ってみるとか……。早速効果てきめん、その寺の今月のことばが目に入ってきた。

「善いことも悪いこともしている私。善いことだけをしている顔をする私。」

筆を使って読みやすい楷書体で書いてある。昔からある禅語録もそうだが、現代版になってもうまく人間のさがを言い当てるものである。「これは見栄のことを言っているのか、それとも実体と表象の永遠のギャップを指摘しているのだろうか」などと考えながら、メモ帳に再現しつつ蕎麦を口に運ぶ。蕎麦を食べ終わり、次のようにノートに書き留めた。

見栄というものはよりよい人間になるうえで最強の敵なのかもしれない。ぼくたちは偽善的にふるまおうとし、己を正当化しようとし、非があってもなかなかそれを認めようとしない。人間だから手抜かりあり、怠慢あり、ミスもある。時には、意識しながら、してはいけない悪事にも手を染める。その実体のほうをしっかりと見極め認めること。「自分には善の顔と悪の顔がある」ことを容認する。これこそが人間らしさなのか。

理屈を超えた文言に触れ、理以外の感覚を動かして、それでもなお結局は理屈で考えてしまうのだけれど、そのきっかけをつくる刺激の質がふだんと違っている。ここに意味があるような気がする。


ぼくのオフィスと自宅周辺から南へ地下鉄を二駅分ほど下ると、谷町六丁目、谷町九丁目という界隈があり、何百という寺院が密集している。現代的なビルの装いをした寺もある。それぞれの寺が「今月のことば」を門のそばに掲げている。休みの日、寺内に入らずとも、散歩がてら文章を読むだけでもおもしろい。2か月前には次のようなものを見つけた。

「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。」
「花を愛で、根を想う。」

前者が「ギブアンドテイクのあるべき姿」、後者が「因への感謝」。こんな具合に自分なりにタイトルをつける。すなわち意味の抽象。

伝えたいことを必死で言語化する「所業」を卑下するつもりはない。専門的僧侶でないぼくが言語から離脱して悟りの境地に到らなくても誰も咎めないだろう。とは言え、言語理性に凝り固まりがちなアタマの柔軟剤として、「意味不足の表現」や「行間判じがたい表現」に触れることには意味がある。「半言語・半イメージ」を特徴とする俳句などもそんな役割を果たしてきたのだろう。俳句に凝った十代の頃を懐かしく思い出す。