見巧者であれ

サラリーマン時代は、今のようにランチタイムを自分なりにフレックスに過ごせなかった。わずかな昼休憩の間にコーヒーも飲みたいから、仲間と出掛けてはそそくさとランチを平らげ、喫茶店に場を移して雑談したものだ。

ある日、行きつけの喫茶店が混んでいたので、店探しに少し足を延ばした。通りがかった喫茶店の前で同僚のTが立ち止まり、「ここにしよう」と残りの三人を促した。見ればドアに「夏はやっぱり愛す♥コーヒー」とマジックインクで書いた紙が貼ってある。

Tさん、ここはないでしょ。この店構え、貼紙の文言や文字のセンスを見たら、完全にアウトですよ」とぼくは言った。だが、「時間もないし……」とTは譲らず、先導して店に入ってしまった。結論だけを書くと、店に入るなり埃の匂いがした。置いてあるソファは赤で場末のスナックから運んできたような代物だった。ソファのスプリングが不良で、座ればドーンと背中まで埋もれてしまった。見るに堪えない夜の化粧のオバサンが一人。アイスコーヒーは……愛すどころか、口に運ぶのも勇気がいるような味だった。

この一件から、「やむをえないという理由で選択肢を広げて妥協などしてはいけない」という教訓を得た。まったく不案内なことについて、ぼくたちは判断しなければならないときがある。蕎麦屋でも喫茶店でもいい、まったく知らない街で二軒の店があり飯を食うかお茶を飲もうとするとき、店のたたずまいや店名など、ごくわずかな情報から優劣判断をするものだ。どんな判断をするにしても、優劣がつけば優の格付けをした店に賭ける。しかし、二者択一ではないから、「劣劣」と思えば消去法的に選ぶことなどないのだ。義務も義理もない。


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先月、「ジャズとお好み焼き」を謳い、コテをモチーフにしたチラシが貼ってある店の前を通り掛かった。かつての同僚Tなら喜々として立ち寄る店だ。ジャズと蕎麦の店にはぼくも行ったことはある。しかし、演歌の流れるフレンチには行かない。ジャズとお好み焼きはぼくの感覚域には属さない。コテを手にして熱々のお好み焼きを頬張りながら、どんなふうにジャズを聴くというのか。しかも、生演奏なのである。聴くほうのセンスも疑うが、演奏する者のセンスにも異議ありだ。

見巧者みごうしゃ〉なる演劇の表現がある。上手に観劇する力のある観客のことだ。舞台は演じる者の技量だけで成り立つのではなく、観劇者にも同等の観賞眼が求められるのである。芸術一般の鑑賞にも当てはまり、店や料理にも広く敷衍できるだろう。上手は一方によってのみ存在せず、上手の本質に呼応する他方があって初めて生かされる。

下手は下手どうしで持ちつ持たれるの関係を続けるだろうが、上手と出合いたければ自らも上手の眼を養わねばならない。見巧者への道は試行錯誤の連続だが、日々の小さな判断力の積み重ねがやがて暗黙知を授けてくれるようになる。とは言うものの、店選びに関しては今も10回に一、二度は騙されてハズレを引く。