買いかぶられるホウレンソウ

ほうれん草.jpg『常識のウソ277』(ヴァルター・クレーマー/ゲッツ・トレンクラー共著)に、「ホウレンソウは特に鉄分豊富な食品?」という一文が載っている。そこには100グラム当たりの食品の鉄分含有量がミリグラムで示されていて、ゆでたホウレンソウは2.2(タマゴやパンとほぼ同じ)、生のホウレンソウが2.6(ソラマメや大豆とほぼ同じ)とある。アーモンド、レバーペースト、チョコレート、ピスタチオなどはホウレンソウの2倍~3.5倍の鉄分を含んでいる。

「ホウレンソウの鉄分含有量は他の食品と大差ない。もしポパイのエネルギー源が鉄分だとしたら、ホウレンソウより空き缶に食らいついたほうがいい」と著者は言う。懐かしくアニメの記憶を辿れば、ポパイは缶詰を開けた後、たしかくわえているパイプをストローみたいに操ってホウレンソウを飲み込んでいた。空き缶をしゃぶりなどしていない。
イタリアでホウレンソウ料理を注文すると、肉の付け合わせのような申し訳程度の量ではなく、一皿にしこたま盛られて出てくる。おひたしのように根元のほうにちょっと固さが残っているようなものではなくて、ゆるゆるに茹でて炒められた離乳食のような一品だ。フォークよりもスプーンですくうほうが食べやすいくらいのそれを、イタリア人は「たまらねぇ」という顔をしてむしゃむしゃ食べる。出されれば拒否する理由はないが、わざわざ注文してまでポパイになろうとは思わない。

二十数年前、学生時代の友人であり、当時大手銀行に勤めていた男をゲストスピーカーとしてぼくの勉強会に迎えたことがある。そのとき初めて、口にはするが食べられない「ホウレンソウ」の存在を知った。口にするとは唱えるということで、これが「報連相」だった。今となってはすっかり人口に膾炙した「報告・連絡・相談」のことである。彼の話を聴きながら、なぜこんな当たり前のことを大企業ではわざわざスローガンにして定着させようとするのか解せなかった。組織内コミュニケーションがこんなことで良化するなどとは……今もにわかに信じがたい。
まず、組織にあって部下が上司に報告するのは当然だろう。英語に粋な言い回しがあって、“I report to Mr.X”と言えば、「X氏が私の上司であること」を暗に示す。さらに、上司の目の届かない所に出張していれば、これも当然のこととして連絡は取るものだ。できたからと言って特別に自慢するような”ミッション・インポッシブル”ではない。つまり、報告も連絡も組織の一員としては、水を飲んで空気を吸うのと同じように、生理的機能として身についてしかるべきだろう。「こんなことをホウレンソウに語呂合わせして浸透させているようでは、諸手を挙げて銀行員を信頼するわけにはいかないな」と思った次第である。
「ソウ」、つまり「相談」だけを徹底すればいい。ビジネス最前線では部下の知恵だけではいかんともしがたい難問が噴出する。経験者に解決策のヒントを仰ぐ相談は不可欠である。そして、相談こそが十分条件を満たすのではないか。ホウレンソウの徹底などと声高らかに謳い上げるところに、大組織のコミュニケーションのイロハの幼さを垣間見る。
自発的な必要に突き動かされるのではなく、スローガンを叩き込まれ義務としてやっているかぎりは、形だけの報告や連絡しかできないのである。ホウレンソウの鉄分含有量が案外だったように、報連相も期待するほど組織の栄養になっていない。食べるにせよ唱えるにせよ、ホウレンソウの買いかぶりには要注意。