もしBを望むならAをしなさい

先週、『知はどのように鍛えられるか(1/2)』の中で、「思考が運命を変える」という法則が真理だとしても、思考そのもののありようや鍛え方が難しいという趣旨のことを書いた。また、「グズをなおせば人生はうまくいく」にも両手を挙げて賛成するが、グズを直すのがネックであるという意味のことも付け加えた。

これに対して知人から「反論というわけではないが、全面納得できないので、もう少し説明してもらえればありがたい」という話があった。なるほど、「命題として記述された法則を認めているくせに、その法則には現実味がないぞ」とぼくは言っているのである。

しかし、そんなに変なことだろうか。わかりやすい例を取り上げれば、「丹念に毎日歯の手入れをすれば、虫歯や歯周病は防げる」に対しては、大勢の人々は是の立場を取るだろう。実際ぼくが定期的に通っている歯医者さんもそう言っている。

しかし、この例も、先の二つの例も、実は〈仮言命題〉という類の命題になっている。いずれの命題も、「もしBを望むならAをしなさい」という表現形式に変換できるのである。つまり、「運命を変えたいのなら思考を何とかしなさい」、「人生をうまく送りたいのならグズを直しなさい」、「虫歯や歯周病にかかりたくないのなら、毎日きちんと歯を手入れしなさい」と読み替えることができるのだ。「Aをしなさい、そうすればBが実現する」という文章は、「もしBを望むならAをしなさい」という意味を記述している。


上記の命題が正しいことを論理学的に証明するのはさほど難しくはない。通念に訴える論拠を使えばいいからだ。しかし、現実に実践してみせることは至難の業である。うまく思考すること、グズを直すこと、毎日歯の手入れをすることは、言ってみるほどたやすくはなく、それゆえに目指した願望がなかなか実現しないのである。念のために、もう一つ例を挙げておこう。「NASAの宇宙飛行士になれば、宇宙に行けるチャンスがある」は、「もし宇宙に行きたいのなら、NASAの宇宙飛行士になりなさい」と記述変更できる。望むのは勝手だが、手段が成功する確率が天文学的であることがわかるだろう。

「夢は叶う」などと軽々しく言う教育者がいる。それはそうだろう、「夢なぞ叶わんぞ!」と言ってしまえば、一極集中的な非難を浴びせられるからだ。だが、「夢が叶う」ためには並大抵ではない努力が必要なことを、実はみんなわかっている。具体的な習慣ですら三日坊主になりかねないのに、抽象性の強い努力がほんとうに続けられるのか。教育者たちはこのことについてあまり正直に語らないのである。だから、彼らは努力の部分を安易なハウツーに変えてしまう。「おいしい卵料理を作りたければ、レシピの研究をして毎日挑みなさい」と言わずに、「卵の黄身と卵白を取り出したいのなら、卵を割りなさい」という、ほとんど機械的で努力を要しない命題へとレベルを落として、「できた気」にさせ束の間の満足を与えるのである。

「マナーを向上させたいのなら、マナー教室に通いなさい」などという仮言命題は、ほとんど「トートロジー」という循環論法になっている。マナー教室に通うのにさしたる努力はいらないし、なるほど数回ほど通えば、よほどのバカでもないかぎり、少しはまっとうなマナーを身につけて帰ってくるだろう。「喉が渇いたなら、水を飲みなさい」にかぎりなく近い話だ。これが社会人を対象とした学びの定番になりつつあることを嘆くべきではないか。つまり、本来やさしいことをやさしく学んでいるにすぎないのだ。だから、いつまで経っても一皮剥けるほどの成果を得ることができない。

ぼくの私塾はこうしたトレンドへのアンチテーゼのつもりだ。「もし人間関係を充実させ良き仕事をしたいのなら、思考力と言語力を鍛えなさい」というのがぼくの仮言命題である。そして、思考力と言語力を鍛えるのは他のどんなスキルアップよりもむずかしいことを付け加える。ある意味で、この命題は仮言命題などではなく、「思考力と言語力は人生そのものである」という《定言命題》と言ってもいいだろう。考えもせず対話もしない人間は、地球上の全生命体のうちでもっともひ弱な存在になり果てる。 

根源的なヒューマンスキルとは?

気に入っている笑話がある。Cレベルの差別用語が含まれており、「十分に注意」して使う必要があるものの、出版されている本からそのまま引用するので寛容のほどお願いしたい。題して「シェアNo.1を目指して」というジョークだ。

ある乞食の前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてやろうと言った。乞食は懇願した。「お願いです。最近物乞いの競争が激しくなっています。どうか私をこの町でたった一人の乞食にしてください。」

抱腹絶倒の笑いではないが、人間臭い可笑おかしみが漂う。気がつけば、謙虚さとプロフェッショナル意識に感心してしまっている。生涯たった一度の願い事を叶えるチャンスなのに、「私を億万長者にしてください」と嘆願せずに、「オンリーワンにしてくれ」と頼む。当該市場でのオンリーワンはそのまま占有率ナンバーワンになる(但し、ナンバーワンはオンリーワンとはかぎらない)。競合相手がいなくなって市場独占が実現する。しかし、競合相手の取り分が自分に回ってくる保証はない。もしかすると、それぞれにお得意さんがいたかもしれないからだ。「あいつには恵んだけれど、お前にはやらん」というケースもありうる。したがって、市場でのオンリーワンが確定してもなお、彼はこれからも営業努力を続けることになるだろう。

もちろん大統領やマンションオーナーや宝くじ一等当選を願ってもよかった。しかし、彼は「業界トップ」になることを望んだ。名実ともに現業を究めたいという彼の思いを尊いものと感じるのは異様なのだろうか。どこか彼に共感するのはぼくだけなのか。自分は億万長者などになりたいのではなく、またそうなるために現在の職業を選んだのではない。一番になれるか固有の存在になれるかどうかはわからないが、プロフェッショナルを究めたい――そう考えている職業人は少なくないはずだ。


最高善を幸福としたアリストテレスにしたがえば、「私を幸せな人間にしてください」とお願いすればすべてが叶う(厚かましく「世界一幸せな」などと言うことなかれ)。アリストテレスによると、財産であろうが友人であろうが愛であろうが、何を求めようとも、究極は「幸福のため」なのだそうだ。幸福に対して、「何のための幸福?」とは問えない。いくら幸福以上の価値を探しても、「幸福は幸福のため」という無限連鎖が続くのだ。人は幸福になるために仕事に従事し生活を営んでいる。アマノジャクなぼくは大っぴらに幸福を掲げるのを好まないので、愉快や上機嫌に言い換えている。

ある日、幸運なあなたの前に神が降り立つとしよう。そして「何でも叶えてやる」ではなく、「一つだけお前が望むヒューマンスキルを授けてやろう」と告げるとしよう。あなたはどんなヒューマンスキルを乞うだろうか(物乞いではなく「技乞い」や「能乞い」や「力乞い」)。これまで挑戦し学び続けてきたが、未だ道遠しにあるスキルをお願いする? それとも、ありとあらゆる能力を発揮できる手綱のようなスキルを望むのか? あるいは、もっとも得意とするスキルにさらに磨きをかけるべく、敢えて自信のあるスキルを授けてもらうのか?

もう一度確認しておこう。神が降り立って絶対に叶えてくれるスキルなのである。後にも先にも一度きりの願掛けのチャンスなのである。ぼく自身の願掛けは今日のところは伏せておくが、お節介を承知の上で、ぼくよりも一回り以上若い人々には助言しておきたい。「想像力」または「言語力」のいずれかを乞うのがいい。想像力は経験と合体して他のスキルを起動させる核となり、言語力は他者や世界との関係を深め知を広げてくれるエンジンになる。いずれも人間資質の根源であり、幸福が最高善であるのと同様に、「なぜ想像力と言語力なのか」とは問いようのない、人間固有の最高次なヒューマンスキルだとぼくは考えている。