言論を軽やかに楽しむ

今になってわかること。今年の1月に予告したときは『言論の手法』でいいと確信していた。なにしろ、2009年度私塾大阪講座の共通テーマが「手法」である。第1講から第6講まで順番に、解決に始まり、情報、言論、思考、構想、市場へと展開する。一昨日の講座が第3講にあたる『言論の手法』であった。年初から9ヵ月後を睨んだときは「これでよし」、しかし講座が近づくにつれ、「ちょっと硬派の度が過ぎる」と首を傾げるようになっていた。

言論と言えば「言論の自由」が浮かぶ。言論を封じられるのはつらいことである。また、弁論家やソフィストらは「言論の技術」を開発し、今にも通用するテキストを残してきた。言論は、権利と技量両面において、軽視できないヒューマンスキルであることは事実。ところが、これはロゴス主義者からの見方であって、「言論なんて重要ではない」という意見も相変わらず底辺では根強いのだ。このような、言論のできる人間を「饒舌家」や「口達者」などと皮肉る認識不足を批判することもできる。と同時に、偏狭な言論至上主義者たちも詭弁と隣り合わせにいる自らの危うさに気づいておかねばならない。

「口はわざわいの門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色すくなし仁」……アンチ言論の諺はいくらでもある。黙っているのが徳であり、なんだかんだと喋ったり言い訳するのは品性を欠くのみならず失態につながることを暗示している。「言わぬが損」と反論しても焼け石に水、わが国の風土にはロゴス過剰を戒める体質が備わっている。


とは言え、雄弁・強弁の自信をちらつかせる輩だけを責めるわけにもいかない。言論エンジンを動かさない、見た目は物分かりのよさそうな黙認者や「みなまで言わぬ人々」にも責任がある。彼らは理屈を嫌う。「それはともかく」だの「ところで」だの「まあ、いいじゃないか」だのとすぐに話の軌道を変える。「言わぬは言うにまさる」のような埃まみれの価値観にしがみつくロゴス嫌いが、上滑りの強硬言論を了解してしまう結果をもたらしている。

鮮やかな論法を駆使して口達者に説得する――こんな言論がよさそうに見えた時代に、愚か者の烙印を押された連中も大勢いた。それは、無知だったからにほかならない。無知な弁論家ほど始末に悪いものはない。まだしも「知のある沈黙」のほうがましではないか。実は、キケロが同じようなことを書いている。キケロは「雄弁でない知恵」のほうが「口達者な愚かさ」よりもましだと言う。しかし、そう言った直後に、「どっちもダメ」と否定し、「いいのは教養のある弁論家」だと断言する。

教養ある弁論家をプロフェッショナルととらえる必要はない。知識を背景に、論理だけを振りかざすのではなく人間味や感性の風合いをもつ説得を心掛け、必要に応じてきちんと意見を述べる。ここにユーモアと軽やかさも付け加えたい。もっと言論をカジュアルに扱うべきなのだ。小さくノーと思ったら、その場でノーと言っておく。先の先で一事が万事という無様な状況を招くくらいなら、いま言論を交わしておくべきなのだ。『言論の手法』などと難しい看板を掲げてしまったけれど、本意は「言論の楽しみ」に目を見開いてもらうことにあった。

ロゴスによる説得

今月の私塾大阪講座では、『言論の手法』を取り上げる。現在テキストの仕上げに入っている。構成は8章、その一つに「ロゴスによる説得」が入る予定だ。えらく難しそうなテーマだが、表現の威圧にたじろぐことはない。この種の勉強を少しでも齧った人は、「説得の『説』は言偏ごんべんであり、ロゴスというのもたしか言語とか論理だから言偏になる。これは当たり前というか、単なる重ねことばではないのだろうか」と思うかもしれない。なかなかの炯眼と言うべきである。

弁論や対話に打ち込んでいた二十歳前後の頃、ぼくもそんな疑問を抱いたことがある。説得というのは、何が何でも理性的かつ論理的でなければならないと思っていた。ところが、アタマが説得されても心情的に納得できない場合があることに気づく。また、儲け話を持ちかけられた人が、たしかに理屈上は儲かるメカニズムを理解できたが、倫理的に怪しくなって説得されるまでには至らなかった。どうやら説得が〈理〉だけで成り立たないことがわかってくる。そんなとき、たまたま手にしたアリストテレスの『弁論術』を読んで説得される。

言論を通じておこなう説得には三種類あるとアリストテレスは言う。一つ目は「人柄エトスによる説得」である。語り手自身が信頼に値する人物と判断してもらえるよう言論に努めれば、説得が可能になるというもの。二つ目は「聴き手の心情パトスを通じての説得」。語り手の言論によって聴き手にある種の感情が芽生えるような説得である。そして、三つ目が「言論ロゴスそのものによる説得」なのである。あれから35年、ぼくもいろいろと経験を積んできた。現実に照らし合わせてみて当然のことだと今ではしっかりと了解できる。


エトスやパトスによる説得がある。ロゴスによる説得も説得の一つの型なのである。弁論術における説得とは、正確に言うと「説得立証」と呼ばれ、その論証の鍵を握るのが〈トポス〉ということになる。トポスとは通常「場所」を示すが、アリストテレス的弁論術においては、思想や言論の「拠り所」、すなわち「論拠」を意味している。もっと簡単に言えば、理性的・論理的説得を成功させるためにはしかるべき理由づけが欠かせない、ということなのだ。

では、どこに理由づけというトポスを求めるのか。トポスのありかは、善と悪、正と不正、美と醜などに関する世間一般の共通観念にこそ見出せる。悪よりも善を、損よりも利を、不正よりも正を、醜よりも美を、悪徳よりも徳を論拠とする言論は、いかなる命題のもとでも説得立証力を秘めることになる。押し付けたり行き過ぎたりする善行や正義や道徳は鼻持ちならずブーイングしたくなるが、後ろめたさのない言論――ひいては生き方――ほど強いものはない。ぼくは真善美派からだいぶ逸脱した、アマノジャクな人間ではあるが、さすがに善や正が悪や不正によって論破されるのを見るのは耐え難い。

善と悪や正と不正など一目瞭然、誰にでもわかりそうだ。ところが、そうはいかない。人々の通念やコモンセンスが、時代ごと、いやもっと近視眼的な状況に応じても微妙に変化するのである。ゴルフは「正」、接待も「正」、しかし接待と偽って平日サボれば、そのゴルフは「不正」になる。殺人は「悪」であるが、是認されている死刑は「善」と言い切れるのか(「必要悪」という考え方もある)。騙したほうが悪いのか騙されたほうが悪いのかなどは、通念が二つに分かれてしまう。トポスを通念やコモンセンスに求めても絶対という説得立証がない。だからこそ賛否両論の討論が成り立つのである。ここがまさに好き嫌いの分岐点になっている。