論を立てるということ

論理、弁論、議論、論説などとよく使っているが、考えてみると「論」を一字単独で用いることは少ない。かつてはおそらく「君の論は」とか「この論によると」などと言っていたと思うが、論は「意見」に座を譲った。ぼくの語感では、「筋のある意見」が論である。だから、論を立てたり張ったりするのは、理にかなった意見構築をおこなうことになる。説明がくどくなるが、「理にかなった」とは第三者が聴いて「一考に値する」と感じること、あるいは「暫定的にオーケー」を出すことだろう。

ネット上に『論を立てる』という番組があると耳にした。ちらと見たかぎりでは、対立的な論戦・激論というよりも意見を交互に述べる談論に近いようだ。論を立てると「立論」になる。ディベートではおなじみの基調弁論の一種だ。立てるのはあくまでも論である。自分の意見で筋を通す。意見を支えるのは、これまた自分で編み出す論拠である。こうして立てた論の信頼性と実証力を高めるために証拠や権威筋の証言を引用する。

ところで、熟年過ぎてから大学院で学んでいる知人がいる。期限が迫ってきた修士論文で困り果て、添削・推敲してくれとねじ込んでくる。不案内のテーマについて書かれた文章など簡単に手直しできるものではない。困っている人を放置できない性分なので、数十枚の論文を読んではみた。各章の書き出しくらいは何とかしたが、その他はどうにもならない。引用文でガチガチに固められて分解修理のしようがないのである。


メールを送った。「このテーマについて何を書きたいのですか? 読み手に何を伝えたいのですか? 何が自分の意見ですか? 人はわかっていることしか書けません。また、わかっていること以外を書くべきではありません。あなたが考えたり読んだりしたことと、あなたのことばの表現・論理が一致しなくてはいけません。」 すると、「これは文献研究なんです」と言うから、またメールを送った。「では、次のような手順で書き換えなさい。1.この本にはこんなことが書かれている。2.私はそれをこう読んで自分のこれこれの意見と照合し考察した。3.この本の意義を私はこれこれに見い出す。」

文献研究ならば、その著者と文献を選んだ動機はあるだろう。必ずはじめに自分の価値観なり意見なりがあるのだ。このような論文にしてもディベートの立論にしても、ほとんどの人がリサーチから入る。文献を読み新聞を切り抜く。テーマや論題について自力で考察していない。ぼくに言わせれば、設計図なしに部材だけを集めている状態。調べると情報の縛りを受ける。複数の情報を組み合わせて論を立てようとしてもうまく整わないのである。

仮説と呼んでも構想と呼んでもいいが、まず自前で論を立てる。情報不足だから中身は空っぽかもしれない。だが、筋さえ通しておけばいい。簡単なシナリオを一枚の紙にざっと書く。一切の情報を「ないこと」にして自分なりの論拠を捻り出す。こうして出来上がったケースシートに一本筋が通ったと判断したら、その時点から筋を補強してくれる裏付けを取るために証拠・権威の証言を調べるのである。すでに仮説の網を張り軸を決めているから、関連情報も見つけやすくなる。いろんな人に口を酸っぱくして助言するのだが、みんな重度の情報依存症に陥っているせいだろうか、言うことを聞いて実践してくれないのは残念である。

推論モデルから何が見えるか (1)

《トールミンモデル》という、主張・証拠・論拠の三つの要素から成る推論モデルがある。わが国では「三角ロジック」という名でも知られている(下図)。

Toulmin Model.jpg “The Toulmin Model of Argumentation”という英語なので、「トールミンの議論モデル」ということになる。けれども、二人の人間の議論以外に、一人で論理を組み立てる時にも、一人で二律背反思考する時にも使えることから、《推論モデル》とぼくは呼んでいる。

このモデルの存在を知ったのは、大学に在学中の1972年頃。ディベートに関する英語の文献を調べていたら、トールミンモデルが引用されていた。論理学者ステファン・トールミンが創案したので、こう名付けられている。

この三角形は簡易モデルである。原型モデルは主張の確信度、論拠の裏付け、反駁(保留条件)の三つを加えた6つの要素を含んでいるが、論理学習の初心者にとっては図で示した3要素で十分に推論を組み立てることができる。


このモデルの「主張」は結論と言い換えてもいい。つまり、ある論点についての意見である。この主張をどこに置くかによって、推論の構造が変わる。

 主張 ⇒ (なぜならば) 証拠+論拠

 証拠 ⇒ (ゆえに) 主張 ⇒ (なぜならば) 論拠

 証拠+論拠 ⇒ (ゆえに) 主張

「証拠+論拠」はセットという意味であって、「証拠⇒論拠」という順にはこだわらない(論理学で「前提1⇒前提2⇒結論」のように書くとき、前提の中身が証拠であるか論拠であるか、あるいは大きな概念であるか小さな概念であるかまで特定していない)。

さて、「腹が減っては戦はできぬ。太郎は今、とても腹が減っている。ゆえに、太郎は戦えない」という三段論法(演繹推理)は、上記Ⅲだということがわかる。「腹が減っては戦はできぬ」が論拠、「太郎は今、とても腹が減っている」が証拠、そして「太郎は戦えない」が主張(導かれた結論)である。

「傘を持って行くべきである(主張)。なぜなら、天気予報では午後から雨が降るようだし(証拠1)、きみが今日出向く所は駅から徒歩10分かかるらしいから(証拠2)、雨に降られればびしょ濡れ、そんな恰好で訪問はできないからね(論拠)」。まさか傘一本でこんな推論はしないだろうが、これは上記Ⅰの構造になっている。

の典型的な例。「御社には他社にない有力商品Aがあります(証拠1)が、競合他社が実施しているサービスBを提供されていません(証拠2)。だから、御社も商品Aと抱き合わせにして大々的にサービスBを打ち出すのが賢明です(主張)。というのも、このジャンルでは商品がサービスよりもつねに優位だからです。同じサービスさえ提供しておけば、結局は商品力勝負ができるのです(論拠)」。複雑そうに見えるが、構造は明快である。これは帰納推理に近い展開になっている。


何を語るにしても、トールミンモデルを使うことができる。そして、上記ののいずれの構造によっても推論を組み立てることができる。しかし、持ち合わせている証拠や訴えたい主張の中身次第では、推論の順番が変われば、相手が感じる蓋然性(確実さ、ありそうな度合い)も変わってしまう。主張から入るか、論拠から入るか、あるいは証拠から入るかによって、説得効果に大きな違いが出てくるのである。

〈続く〉

カジュアルなディベートカフェの試み

こういう話は実際のイベントの前に書くのか後に書くのか、大いに悩むところだ。告知なら前だし、感想なら後だ。企画書は前で、報告書は後である。予想は前で、結果は後。当たり前だ。あれこれと考えた挙句、予習がてらシミュレーションをしてみようと思った。体験版ディベートカフェは本日午後6時に開催する運びで、すでに論者は決定している。オブザーバーも歓迎なのだが、今回のみぼくの知り合いに限定させてもらっている。

学生は例外として、社会人がディベートに親しむ条件を満たすのは厳しい。定期的に集まろうとしても人数が揃わない。いや、ともえ戦方式で肯定側・否定側・審査員と役割をローテーションしてディベートすれば一応の格好はつく。だが、わずか三人、文殊の智慧が出ても、熱気や活気が生まれることはないだろう。少なくとも十人くらいは集まってほしい。それに、論題を事前に調べる時間もない。スキルレベルがまちまちで拮抗する議論も望めない。おまけにルールがどうのこうの……。

困難な条件を数えあげたらキリがない。長年のディベート指導の体験から言うと、ディベートにまつわる問題の筆頭は「論争が重くなる」ということだ。つまり、小難しく堅苦しいばかりで、少しもおもしろくないのである。とにかく重過ぎるのだ。専門家は「ディベートはスピーチとは違う」とディベートの優位性を熱弁する。だが、実態は準備をしてきた立論をスピーチしているだけではないか。否定側の立論もスピーチ、その後の反駁もスピーチ。対話に付随する当意即妙のスリルとサスペンスからは程遠く、演説という部品を組み合わせただけのゲームになってしまっている。議論する者たちはそれでもいいのだろうが、観戦者はもっと軽やかで日常的な論争を期待している。


そもそも議論は理性的なものだ。だからと言って、それは生真面目さや硬派なルールや重苦しい雰囲気や大量の証拠の準備を強制するものではない。カジュアルな論争というものがありうるのだ。たとえば酒はどうかと思うが、コーヒーをすすりながら議論してもいいだろう。発言時に論者がいちいち起立することもない。2233にこだわらず、もっとも現実の対話に近いもどんどんやればいい。肯定側 vs 否定側などという用語も、論題や狙いに応じて、たとえば「提言側 vs 検証側」などにしてもいい。こういう名称に変えてみると、提言側に質問権を与えなくてもいいのではないかとも思えてくる。このように考えていけば、議論の手順(フォーマット)も様変わりする。

ディベートカフェの短時間バージョンをぼくは「エスプレッソ・フォーマット」と名付け、少し時間をかけて33でおこなうのを「カフェラッテ・フォーマット」と呼ぶことにした。いずれの論題も開催の前日から3日前くらいに発表する。とりわけ前者のディベートでは証拠は基本的に不要で、主張と論拠中心にアタマで論理を捻り出すことを奨励する。後者はチームプレイを重視するものの、こちらも証拠偏重のディベートにはしない。証拠となる簡単な資料は、ディベート開始時間前に希望者に配付する。


軽装備のディベートこそ長年ぼくが理想としてきた形である。そうでなければ長続きしないからだ。論題の賛否は際立つようにする。つまり、思いきり是と非の距離を広げる。これにより姑息で間に合わせ的なケースバイケース議論を排除する。そう、多重解釈を許すようなディベートではなく、真っ向勝負の論戦を期待するためだ。さらに、事実や専門家の意見に極端に左右されないよう、証拠至上主義を戒める。もっぱら己の考えるところを中心に論じる。

「そんなやり方をすれば、余計重苦しい論争になるのではないか」という危惧があるかもしれない。まったくそんなことはない。どんなに論題が難解であろうと、手ぶら状態に置かれた論者は自分のアタマを頼りに考え語るようになる。思考を両極限的に対立させるとき、アタマの回路は逆に明快になる。肩肘の張りが緩み、相手の話がよく聴けるようになり、軽やかに議論できるようになる。

以上、ぼくがシミュレーションしてみたディベートカフェの姿だ。ぼく自身はカフェスタイルの対話や議論には慣れ親しんでいるが、今回の参加者にとっては初めての体験に違いない。ぼくの描くような知的で愉快で相手に対して寛容に満ちた論争の証人になれるか。今から8時間後が楽しみである。