まずい鯖寿司の話

今日は恵方巻が飛ぶように売れているが、ふだん食べる太巻よりも格段にうまいわけではない。ただ、通常切り分けて食べるのを「痛快丸かぶり」するから、うまさの触感が増しているかもしれない。

人から聞いた話だが、恵方巻ではなく、まずい焼き鯖寿司の話を書く。

とある店の焼き鯖寿司がうまいとテレビでべた褒めだったので、Yさんは差し入れにと買った。土産にした本人は食していない。鯖寿司をもらった女性二人は「テレビで評判のうまい」という触れ書きをアタマの片隅に置いてYさんが去った後に食べたという。結論から言うと、「とてつもなくまずかった」。彼女ら二人とYさんは一緒に働く、きわめて親しい関係にあるが、翌日会った時にさすがに「Yさん、あれはまずかったわ」などとは言わない。それが良識というものだ。

一ヵ月ほどしたある日、3人が一緒にいる時に、たまたま別の土産物をもらったそうで、味の話になった。そこで、「Yさん、言いにくいんだけど、この間の鯖寿司ね、全然おいしくなかった」と一人の女性が切り出した。告げられたYさんは驚いた。まるで自分の責任のように感じたのも無理はない。


うまい・まずいは人それぞれだ。この焼き鯖寿司に関するかぎり、二人の証言しかないので結論を下せない。だが、Yさんはその店の評判よりも友人である二人の女性の声を信頼する。悔しいが、Yさんは店にもテレビ局にも文句は言えない。「うまいと言って買ってくださる人が大勢いる」と言われたらそれまでだ。したがって、マスコミの「イチオシ情報」を今後鵜呑みにせず、その店の焼き鯖寿司を二度と買わないようにする。むろん、Yさん一人の抵抗で店が淘汰されることはないだろう。

それにしてもだ。賞味期限や成分偽装などの品質問題には文句を言えるが、味を問題としてクレームはつけにくい。スカスカのおせち料理には文句を言えるが、てんこ盛りになったまずいラーメンには心中「まずい」とつぶやいて、これまた心中「二度と来てやるものか!」とつぶやくのが精一杯の抵抗である。

ぼくの経験では「名物にうまいものなし」はだいたい当たっているが、それでもそのまずい品が名物であり続けるのは、ぼくとは味覚が違って「うまい」と評する者が後を絶たないからだろう。加えて、人には自ら選択したものがまずかった時に「うまいと思い成そうとする心理」が働く。いわゆる〈認知的不協和〉の一種だ。

さあ、夕刻になったら、うまい恵方巻を買って帰ろう。買う時点では「うまい」は仮説である。頬張ってから味の良し悪しが判明する。もしまずかったら、また後日悪口を書いてみようと思う。