二字熟語遊び、再び

オセロ 二字熟語.png「平和と和平」のような関係が成り立つ二字熟語を探し、昨年本ブログで二度遊んでみた(『二字熟語で遊ぶ』『続・二字熟語で遊ぶ』)。

二字熟語「○●」を「●○」にするとまったく意味が変わってしまうものもあれば、類語として成り立つものもある。欲情と情欲の違いは何となく分かる程度であって、言を尽くして差異を明らかにするのは容易でない。勉強ではなく遊んでいるのだから、辞書に頼らずに熟語を対比させてみるのがいい。自分自身の語感の鋭と鈍にも気づかされる。

【期末と末期】
(例)決算の「期末」になって経営が「末期」症状になっていることに気付いたが、手遅れだった。

中高生の頃、期末試験のたびに絶望的になった。いずれ忘れてしまう年号や固有名詞を、ただ明日と教師のためだけに今日記憶せねばならないという、不可解にして不条理な現実。期末という術語には悲観が漂い、末期には絶望が内蔵されている。
 
【所長と長所】
(例)さすが「所長」だけのことはある。短所はほとんどなく、「長所」ばかりが目立つ。

自分のことを描写した例文ではない。ちなみに、ぼくは三十代半ばで創業した。社長と呼ばれるのに違和感があったけれど、社名に「研究所」が付くから「所長」と名乗れた。所長には商売っ気をやわらげる響きがある。
 
【手元と元手】
(例)「その事業を始めるには『元手』がいるぞ」「ああ、わかっている」「ちゃんと『手元』にあるのか」「一応」。

この例のように、元手は手元にあることが望ましい。他人のところにある資金を当てにしていては元手と呼べないだろう。なお、元手はスタート時点での資金である。この資金を生かして手元に残したいのが利益というわけだ。
 
【発揮と揮発】
(例)彼は持てる力を「発揮」して挑んだが、努力の一部は水泡に帰し、あるいは「揮発」してしまった。

かつてはガソリンの類を揮発油と呼んだが、衣服のシミ抜きに用いるベンジンなどもそう呼ばれていた。独特の匂いが鼻を刺激するが、シミ抜きで威力を発揮したら後腐れなく揮発する。疾風はやてのようにやって来て用事を済ませ、疾風のように去って行った月光仮面もよく似ている。
 
【事情と情事】
(例)すべての「情事」にゆゆしき「事情」があるとはかぎらない。また、事情が何であれと言う時、その事情に情事を想定することもまずないだろう。

小学生の頃に初めて「情事」ということばを知った。ご存じゲイリー・クーパーとオードリー・ヘップバーンの『昼下がりの情事』という映画の題名がきっかけだった。英語の“information”かドイツ語の“Informationen”かに「情報」という訳語をつけたのは森鴎外だと何かの本で読んだことがある。こちらの情は「じょう」ではなく「なさけ」のほうだったと思われる。
 
【水力と力水】
(例)「水力」は電気エネルギーとなって文明に寄与し、「力水ちからみず」は精神的エネルギーとなって力士に元気を与える。

力水は浄めのものである。力水は負けた力士ではなく勝った力士につけてもらう。これで気分が一新する。但し、力水は所詮水である。力水で風呂は沸かないし量も少なすぎる。他方、水力は力である。他の力同様に、水の力も善悪両用に働く。

人に学び、人を語る

本年度の私塾《岡野塾》の全日程が終了した。6月から11月まで毎月『知のメンテナンス』をねらいとして講座を実施した。そして一昨日特別開催〈第1回プレゼンテーション・コンテスト〉を開催して締めくくった。発表のテーマは「人に学び、人を語る」。座右の銘ほどの位置づけではないが、ずっと以前から「人は人からもっとも多くを学ぶ」ということを繰り返し強調してきた。どんなに高度な情報化社会になっても、ぼくたちは機器やソフトウェアから学んでいるのではない。学習源はまた書物でも談論でもない。ほとんどの知識の源流は人に遡る。

自然現象は人を介さないでやって来る。自宅やオフィスにいて地震に襲われるのは、自然が発した直接の情報を感知したということだ。天変地異は脳や身体で感知する。暑い寒いもそうだろう。だが、これらは聴覚・視覚・味覚・嗅覚・触覚の五感を通じてぼくたちが取り込む情報のほんの一部にすぎない。その他の圧倒的な量の情報はどこかで誰かが発信したものだ。そして、情報を受信しているのも、他ならぬ人からなのである。情報を知と言い換えるならば、知の主たる源泉は他者にある。人は相互刺激によって知を交わす。

ありていに言えば、知のベースに学問があり読書があり仕事があり趣味がある。これらすべての行動において、そこにはつねに人がいる。人が申し訳なさそうに脇役として介在しているというよりも、人が主たる原点にある。ぼくたちは話を聞くと言い、本を読むと言う。情報を取り込むとも言うし、街を眺めたり現場を見学するとも言う。しかし、よくよく考えてみれば、話も本も情報も、街も現場もすべてがメディアなのではないか。これらの媒体の向こうにぼくたちは人を見て人から学んでいる。


話を聞くと言うが、ほんとうは人を聞いているのだ。「おれの話を聞け!」というのは「おれを聞け!」であり、英語なら“Listen to me!”になる。本を読むのも、ほんとうは人を読むのである。戯曲の題名が『ハムレット』であろうと『ヴェニスの商人』であろうと、ぼくたちはシェークスピアを読んでいる。これも、英語では“I read Shakespeare.”と言う。ちなみに“read”には「研究する」や「専門にしている」という重要な意味もある。

『ソクラテスの弁明』を読むとき、ぼくたちは著者プラトンを読んでいる。もちろんソクラテスにも学んでいるが、ソクラテスを語るプラトンにより多くを学んでいる。『本居宣長』を通じて小林秀雄を読み、小林秀雄に学んでいる。Pが人物Sを語るとき、ぼくたちはSのことばかりを躍起になって学ぼうとするが、語り手であるPによりぶれない軸を移しておくべきだろう。さもなければ、P以外のQRという語り手でも誰でもいいということになってしまう。PQRかによってSという人物は大いに違って見える。別人ではないかと思えることさえある。語り手あるいは書き手Pゆえの人物Sなのである。

坂本竜馬について誰が語り誰が書いたのかが重要なのである。竜馬と会ったこともないぼくたちが知りうることは、語り手と書き手の文言を除いて他にないのだ。本年の私塾で、ぼくはプラトンやレオナルド・ダ・ヴィンチや老子やマキアヴェッリを語った。実は、塾生たちはテキストを書き講話したぼくを学んでくれたのである。このことがいかに希少な僥倖であるか、そして、それを肝に銘じるからこそ、ぼく自身も神妙に人物から学ばねばならず、片時も手を抜くわけにはいかないと強く自覚できるのである。語り書くという行為が安直であってはいけない。そこにおける責任は重い。

地下鉄線に沿って

「へぇ、こんなものがあるのか」と驚いた。

大阪市外に住んだ時期も二十数年ほどあったが、ほんの数年間を除けばつねに大阪市内で働いていた。仕事は転々としたが、いつも市内の職場に通っていた。今は職住ともに大阪市中央区。自宅と職場は徒歩15分足らずなので、勤務に地下鉄は使っていない。数年前までは地下鉄に必ず乗っていたし、ライフスタイルは車を持たない主義なので、どこかへ行くとなれば最寄の地下鉄駅が起点になる。近くを谷町線、堺筋線、鶴見緑地線という三つの地下鉄が走り、自宅から徒歩5分圏内にそれぞれの路線の駅がある。

地下鉄をよく利用してきたし詳しいつもりでいた。だが、初めてそれを見て少し驚いた。「それ」とは、大阪市交通局が発行する『ノッテ オリテ』9月号。漫才師のような雑誌名だ。隔月刊のフリーマガジンらしいが、こんなものがあるとはまったく知らなかったのである。手にした9月号では「大阪旅 坂の町をゆく」と題した特集を編んでいて、上町、七坂、天王寺の風景が紹介されている。しょっちゅう散歩しているなじみの街並みだ。

大阪城から南方面に広がる一帯が高台の上町台地。山あり谷ありは大げさだとしても、起伏があるので坂の多い光景を呈している。天満橋てんまばしにあるぼくのオフィスのすぐそばを谷町筋が通り、大川の手前、土佐堀通とさぼりどおりの南側の傾斜が大阪の由来になった坂と言われている(大阪はかつて大坂、つまり「大きな坂」だった)。上町から見れば谷町たにまちは「谷」だから、狭い街中にあって高低感をよく表わす地名になっている。

さて、交通局が発行するその雑誌。巻頭に若手作家の万城目学まきめまなぶが『谷町線おもいで語り』と題してエッセイを書いている。谷町九丁目に住んでいた話、天満橋の小学校へ地下鉄で通っていた話、谷町線特有の紫のラインカラーの話などを懐かしく綴っている。次のくだりを読んで、思わずにんまりとしてしまった。

「(……)これまで数えきれぬほどの難解な漢字の組み合わせを見聞きしてきたであろうに、『いちばん難しい漢字四文字の組み合わせを答えよ』と問いかけられたなら、反射的に『喜連瓜破』の四文字が浮かぶ(……)」


ありきたりの文章だ。この文章に対して思わずにんまりしているのではない。「きれうりわり」と読ませる四文字の響きがたまらないのである。ここには何とも言えない、また知らない人には説明のしようのないおかしみがこもっている。喜連瓜破は、おそらく商売繁盛と並ぶほどの、大阪色たっぷりな四字熟語なのである。ちなみに、喜連瓜破は地下鉄谷町線の駅名の一つ。そして、この谷町線は、珍しいほど路線をくねらせて走っている。

谷町線を南から北へと辿ってみよう。八尾南やおみなみ長原ながはら出戸でとへと上がり、喜連瓜破きれうりわりで西へと向きを変え、平野ひらの駒川中野こまがわなかの(この近くに大学生頃まで住んでいた)、田辺たなべふみさと阿倍野あべの天王寺てんのうじへと達する。ここで再び北へと進路をとり、四天王寺前夕陽ヶ丘してんのうじまえゆうひがおか、谷町九丁目、谷町六丁目、谷町四丁目とくどい駅名が続き、天満橋へ。ここからまた西へ向き、南森町みなみもりまちを経て、息つく暇もなく、東梅田ひがしうめだ中崎町なかざきちょうと北上。天神橋筋てんじんばしすじ六丁目(日本最長で有名な商店街の最北地点)からは東へと走り、都島みやこじま野江内代のえうちんだい関目高殿せきめたかどの千林大宮せんばやしおおみや太子橋今市たいしばしいまいち守口もりぐち、そして終点の大日だいにちへと到る。実に四文字の駅名が五つもある。


喜連瓜破の他にも、生粋の大阪人が「おかしみのツボ」に嵌まる地名がある。さしずめ放出はなてん杭全くまた天下茶屋てんがちゃやはトップブランドだろう。「どうしておかしいのですか?」と他府県びとに聞かれても困る。おそらく語感と場所柄のイメージが複雑に絡み合ってそうなったはず。とにかく、これらの地名が脳内に響いただけで鼻から漏れそうな笑いの息をこらえたり実際に笑ってしまったりする人たちが少なからずいる。なお、今日の夕方、ぼくはさっき紹介した関目高殿で講演をおこなうが、一つ手前の駅の野江内代がちょっとやばい空気を醸し出しているのに気づいた。要注意だ。要注意とは、地下鉄の電車内で一人にんまりとすることへの警鐘という意味である。