ロジックの出番はどこにあるか

逆・裏・対偶.jpgオフィス近くの寺院の今月の標語は「らくを求めて苦しむ」。こういうことばに反応して「じゃあ、苦を求めたら楽になるんだなあ」と推し量るのは単純な早とちりというものだ。《命題の逆・裏・対偶》。聞いたことがある、ちょっとかじったことがあるという程度の人が大勢いるはず。覚えたつもりが、しばらく経つとすっかり忘れてしまう論理ツール。論理的思考は研修テーマの一つなのでぼくには染みついているが、いざこれを説明して理解してもらうとなると話は簡単ではない。

楽を求めるから苦しむ、ならば、その逆の「苦を求めれば楽になる」が真理だと考えてしまうのが人の常だろうが、Xがダメなら、その真逆のYはいいはず……と導出するのは甘い判断と言わざるをえない。ふだん理屈を嫌う人ほどこんなふうに二律背反的に物事を発想する傾向がある。山で右の道が行き止まりだったとして、元の位置から左へ行けば正解かと言うと、そうとはかぎらない。どちらも行き止まりの場合だってあるのだ。

「楽を求めて苦しむ」をわかりやすく「楽⇒苦」と表現してみよう。図では〈AB〉という命題の位置に入る。これを論理学の「逆」に置換したのが〈BA〉で、「苦⇒楽」に相当する。つまり、「苦しみを求めて楽になる」。さらに、論理学には「裏」という概念もある。〈not Anot B〉がそれ。「楽を求めなければ苦しまない」という命題表現になる。たいせつなことは、〈AB〉が真理だとしても、順序をひっくり返した〈BA〉と、否定形で裏返した〈not Anot B〉が真理とはかぎらない、という点である。
 
命題が真理だとしても、逆と裏は真理かもしれないしそうでないかもしれないということは、ちょっと考えてみればわかる。「ふだんから楽なことばかりしたり求めたりしていては、困難な場面に出くわすと対応できなくなって苦しんでしまう」……これに納得したとしよう。では、逆の「ふだん敢えて苦しいことを求めて実践していたら、いざという場面で楽になるか」と言えば、そうとはかぎらないことに気づく。そう、いつも苦しいかもしれないのだ。さらに、裏の「楽なことを安易に求めようとしなければ、苦しむこともないだろう」にも賛成しかねる。もしかすると、苦しみはいつもついてまわるのかもしれないではないか。
 
この論理図式の中央に「対偶」というのがある。〈AB〉が真理ならば〈not Bnot A〉がつねに真理になるというロジックだ。つまり、「楽を求めて苦しむ」のが真理なら、「苦しんでいないときは楽を求めていないときである」が必然導かれるのである。命題の対偶について心得ておくことは、ものを考えるうえでかなり便利だと言えるだろう。と、これを結論としてここで終えるわけにはいかない。
 
これはあくまでも論理図式の「もし~が真理ならば」という前提に立ったときの話にほかならない。すでにぼくたちが知っている命題、たとえば「東京は日本の首都である」なら、その対偶である「日本の首都でないならば東京ではない」は確定する。だが、現実は命題そのものの真偽が定まらないことが圧倒的に多いのだ。逆や裏や対偶云々の前に、命題そのものを問う力こそが求められるのである。

論理的思考を再考する

論理の指導をする身ではあるが、ひいきをしているわけではない。それでも、論理的思考ロジカルシンキングは物事を明快にしてくれるし問題解決にかなり役立つ。「論理以前」の幼稚な思考だけで、あるいは、当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで物事を受け流してきた者には学ぶところが多いはず。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどは、論理能力の不在によって生じることが少なくない。

 

論理的思考や論理学の初歩になじみたいという入門者に、写真の『はじめて考えるときのように』(野矢茂樹著)を薦める。一読した彼らはぼくに文句を言う。「やさしいと思ったら、めったやたらに難しいじゃないですか!?」 ぼくは返す、「文章はわかりやすいが、内容がやさしいなんて一言も言っていない。論理や思考がやさしいものなら、ぼくたちは苦労などしない。慣れないことはすべて難しいんだ」。

この分野に心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学を学びたいのではない。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な〈明証・分析・綜合・枚挙〉に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも成果は上がる。


しかし、日々の自分を省察してみよう。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。いま論理的思考をしているぞという自覚があるだろうか。おそらく確信できないはずだ。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、知っていることの確認作業の域を出ない。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の〈蓋然性〉を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。蓋然性とは「ありそうなこと」を意味する。

論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてなのである。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多いのだ。それゆえ、どんなタイトルがついていようと、ぼくは「ロジカルコミュニケーション」を念頭に置いて指導するようにしている。

論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが、一人で悶々とする論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきだろう。

(本文は201063日の記事に加筆修正したもの)

論理的思考の取り扱い

来週末に『論理思考のすすめ』と題した講座で話をする。ぼくの命名ではなく、主催者側の意向を反映したものである。タイトルこそ変わるが、年内に何度か『ロジカルシンキング』について研修機会がある。一年に何10回とディベート研修に携わっていた時期が15年ほど続き、ディベート熱が落ち着いた以降も、その流れで論理学習に関する講演や研修の要請がある。ディベート発想と言えば「論理的思考」であると世間一般には連想されるようだが、部分的には重なるものの、厳密には相違点も少なくない。

論理的思考あるいは英語でロジカルシンキング。何かとても良さそうな能力や技術に見えてくる。賢そうであり頼もしそうであり、難事をうまく片付けてくれる「斬れ者」にも似た雰囲気を湛えている。たしかに、「論理以前」の幼稚な思考だけで――すなわち当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで――物事を受け流してきた者には学ぶところが多い。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどのほとんどが論理能力不在によって生じる。「論理療法」では、こうした問題を「心理と思考の病状」として扱い、しかるべき処方をおこなう。

ちなみに、論理的思考と論理学的思考は完全にイコールではない。大まかに言うと、後者では推論が主体になる。たとえば「人は幸福を願う(前提1)。私は人である(前提2)。ゆえに私は幸福を願う(結論)」は典型的な演繹推理の例であるが、前提1と前提2を是と認めるならば、結論は必然的に導出される。このような例ならば、わざわざ論理学の助けを借りる必要などない。

また、「私の机は四足である(前提1)。四足は犬である(前提2)。ゆえに私の机は犬である(結論)」は、「XならばY。ならばZ。ゆえにXならばZ」という三段論法の構造に沿うが、結論が「偽」になってしまっている。異様に聞こえるかもしれないが、論理学では真偽は問わないのである。ただ「二つの前提を認めれば結論が導かれるかどうか」を検証しているにすぎない。要するに、現実や現場の状況をしばし棚に上げて、探偵よろしくアームチェアに腰掛けて推論の構造をチェックするのが論理学的思考なのである。


ロジカルシンキングに心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学的思考を学びたいのではない(もちろん、一度は通っておいてもいいだろう)。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な明証・分析・綜合・枚挙に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも論理的思考はうまくいく。

しかし、よく日々の自分を省察してみればいい。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。もっと言えば、あなたには論理的思考をしているという自覚があるだろうか。おそらく確信していないはずである。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、前述した二つの推論事例を見てもわかる通り、知っていることの確認作業なのである。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の蓋然性(ありそうなこと)を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。

論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてなのだ。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多い。それゆえ、ぼくの講演タイトルは可能なかぎり『ロジカルコミュニケーション』にしてもらっている。いずれにしても、論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきである。

否定の否定は肯定?

「これはおいしい」の否定は「これはおいしくない」。そのまた否定は「これはおいしくないではない」。変な日本語になってしまった。もっとわかりやすい説明をしようと思ったら記号論理学の力を借りねばならない。そうすると、わかりやすくしようという意図が裏目に出る。ほとんどの人たちにとって逆に不可解になってしまう。

Aの否定は「not A」。これはわかりやすい。次に、「not A」の否定は「NOT not A」。けれども、この大文字の「NOT」が小文字の「not」を打ち消しているので、差し引きすると、「A」の否定の否定は「A」になるというわけ。「犬である」の否定は「犬ではない」。この否定は、もう一度打ち消すので、「ない」が取れて、「犬である」に戻る。

日常の二人の会話シーンを想定するなら、「犬だね」→「いや、犬じゃないぞ」→「いや、そうでもないか」という流れになって、「うん、やっぱり犬だ」という肯定に回帰する。しかし、ちょっと待てよ。「否定の否定」はほんとうに「肯定」になるのだろうか。論理学では、あることを否定して、さらにそれを否定する人間の心理をどう考えるのだろう。書物の中で翼を休める論理学と、現実世界で翼を広げて飛翔する実践論理が同一のものであるとはぼくには思えない。


誰かが「Aである」と言って、それに対して「Aではない」と別の誰かが異議を唱えるとする。つまり一度目の否定。このとき「Aである」と最初に主張している人の心理に変化が起こるはずである。「Aではない」と否定した人も、Aに対して何らかの心理的・生理的嫌悪が働きはしなかったか。

否定にも、アドバイスのつもりの善意の否定と、論破目的だけの意地悪な否定もあるだろう。たとえば、「この納豆はうまい」に対する小学生の「ノー」と大人の「ノー」は質が違うはずである。心理と生理に引っ掛かる度合いも当然異なっているだろう。

「納豆はうまい」という命題をいったん否定して、さらにもう一度否定すれば、まるで手品のように命題の肯定に戻るというのは書物内論理学の話である。「納豆がうまい? とんでもない! 納豆はうまくない」と否定しておいて、この言を舌の根が乾かないうちに否定して「やっぱり納豆はうまい」を還元するのと、最初から素直に「うまい」と肯定するのとでは、「納豆に対する嗜好の純度」が違う。納豆党からすれば、すんなり肯定されるほうが気分がいいのは言うまでもない。


ところで、自民党の否定は「反自民」なのだろうか、それとも「民主党」なのだろうか。自民党の否定の否定は「自民党」なのだろうか。自民党支持の否定は「自民党不支持」。その否定は「自民党不支持ではない」。これは最初の自民党支持と同じなのだろうか。論理学は時間の経過を考慮しないかもしれないが、命題を否定して再度否定しているうちに現実には時間が経過する。自民党の否定の否定は、もしかすると「投票棄権」の可能性だってある。