もう少し議論してみないか

論理思考や議論の技術を指導してきたわりには、日常茶飯事理詰めで考えたり議論したりしているわけではない。そんなことをしていると身が持たない、いや頭が持たない。論理や議論が頭を鍛えてくれるのは間違いないが、同時に感覚的な面白味を奪ってしまう可能性もある。だから、ふだんからユーモアやアートもよくしておかないとバランスが取れなくなる。

ところで、ディベート嫌いの人でも、自分の子どもが意見を主張してきちんと議論できることに異を唱えないだろう。かつてのように「理屈を言うな!」という苦し紛れの説法をしていると、理屈どころか何も喋らなくなってしまう。昨今、若手が仕事でもほとんど理屈を言わなくなったので、ぼくなどは「もっと理屈を!」と言い含めているありさまだ。

老若男女を問わず、物分かりがいい振りをする人が増えたような気がする。心身に負荷のかかる批判をやめて、ストレスを緩和できる褒め・・に向かうようになった。低次元で馴れ合うばかりで相互批評をしない。嫌味を言わず毒舌も吐かない。但し、本人がいない所では言いたい放題なので、結局はイエスとノーの二枚舌を使い分けることになる。こんな生き方をしていては、アイデンティティを喪失する。無口になり、考えるのが億劫になる。


明日、中・高・大学生チームが参加するディベート大会が神戸で開かれる。ぼくとぼくの仲間が組織している関西ディベート交流協会(KDLA)から20名前後の審査員が協力する。橋下徹のディベート能力重視の説に便乗するわけではないが、年に一、二度でいいから、真剣に議論をしてみると、思考のメンテナンスができると思う。たまにでもいいから、イエスとノーしか選択肢がない争点に自分を追い込んで、是非論を闘わせてみればいい。

Aさんは今日も言いたいことがあるのに言えない。その言いたいことは、もしかすると、組織にとっても議論の相手にとってもプラスになるかもしれないのに、黙っている。B君はイエスで妥協してはいけない場面なのに、またノーを言えずにイエスマンになっている。何でもイエスは何でもノーよりもたちが悪い。

議論は戦争ではなく、検証によってソリューション探しをするものなので、回避する理由はどこにもない。商取引で最初に金額を明示するのと同じく、コミュニケーションの冒頭で意見を開示しておくのは当たり前のことなのだ。たまにでいいから、大樹に寄らない姿勢、長いものに巻かれない覚悟、大船に乗らない勇気を。同論なら言わなくてもよく、異論だからこそ言わねばならないのである。

類似性への気づき

論理思考の研修経験は豊富であるものの、何もかも承知しているわけではない。ある程度詳しい分野もあるが、きっちりと誰かに説明する段になると話は別である。他者に説明できないのは十分にわかっていないからなのだと自覚している。だいたい論理学で扱われる、〈演繹〉や〈帰納〉などの用語につきもののペダンティック臭が気になる。と書いて、この「ペダンティック」などということばがその最たるものだと気づく。これは衒学的という意味。やれやれ、日本語で説明してもやっぱり鼻につく。「オレは知識があるぞと、ひけらかすこと」である。

未だによくわかっていると胸を張れないのが、最重要語である〈論理)、そしてその形容詞である〈論理的ロジカル〉の意味である。論理学で扱う論理という用語になじむ前に、「あの人(またはあの人の話)は論理的ではない」というように日常的な使い方を身につけてしまっている。ここから、論理が「筋の通っていること」、ひいては話の中身にまで立ち入って「矛盾していない、理路整然としている、明快である、わかりやすい」などと理解する癖が身についてしまっている。これはこれで必ずしも都合が悪いわけではないが、論理学では論理という用語をもっと素っ気なくとらえてしまう傾向がある。

ついこの間も、〈推論〉と〈類推〉の違いについて聞かれた。専門用語辞典のほうが精度が高いのはわかっているが、この質問を誰かにしなければならない人が辞典を読んで細密な定義の相違を理解できるはずがないのである。論理学者が耳にしたら怒るかもしれないけれども、手ほどきというものはおおむね大づかみなものなのだ。「推論は一つまたは複数の前提から結論を導くこと。類推は、この前提のうちに別の確証性の高い何かとの類似を見い出して結論を導くこと」と説明した。

そして、「論理というのは、中身のことではなく、推論の型のこと。前提を認めたら結論を認めざるをえないような型ならば論理的と言える」と一言付け加えた。これが余計なお世話で、質問者を混乱させてしまったかもしれない。わかりやすく解説しているつもりだったが、やっぱり「ペダンティックで衒学的で内包的定義」に過ぎる。ほんとうに嫌になってしまう。隙間なく規定された体系というものは、用語を精密部品のように操ることを強制するのである。


Xという前提からYを導く推論」を論理学で学ぶときはたいてい答がわかっている。「生卵を硬い床に落とすと(X)、割れてしまう(Y)」という具合だ。この推論は、Xという原因からYという結果が生まれるという因果関係を扱っている。論理の前に経験でわかってしまう。ところが、現実世界ではこうはいかない。「この広告を掲載すれば(X)、売上倍増になるだろう(Y)」のように、XYという結果をもたらすには、X以外にどんな前提が必要かという点まで考え抜かねばならないのである。

差異がわかっているから類似に気づき、類似がわかっているから差異に気づく。類似と差異はワンセットだ。AというパンとBというパンの味がよく似ている。Aに使用している小麦の産地がCなので、Bのパンもそうかもしれない――これが類似による類推(あるいは類比アナロジー)である。推論の蓋然性、つまり、「ありそうなこと」は定まらない。

「いま確かなことは三つだけである。一つ目は顧客の価値観が多様化していること。二つ目は顧客の願望が高度化していること。そして、三つ目は、この二つ以外に確かなことは何一つないということだ」。

これはフィリップ・コトラーのことばだが、要するに、確かなことは二つしかないということをデフォルメしたものである。ところで、ポンペイの遺跡で有名なヴェスヴィオ火山の噴火で亡くなったプリニウス1世(紀元23年-79年)に「唯一の確かなことは、確かなものなどないということだ」というのがある。コトラーはこのことばをもじったのか。それとも偶然の類似性か。いずれにしても、類似性に気づくためには、ある事柄を既に知っている別の事柄と照らし合わさねばならない。差異も同様である。気づくとはそういうことなのである。

「どちらとも言えない」と「わからない」

明日から二日間、行政での「ロジカルシンキング研修」を担当する。研修で使用するテキストの小演習の一つをご紹介しよう。効果的な設問に書き換えるのがこの演習のねらいである。

「あなたはコーヒーをよく飲みますか?」という問いがあり、回答欄が「はい」「いいえ」「どちらとも言えない」の三択になっている。アンケートにはよく「どちらとも言えない」とか「わからない」という、第三の選択肢が設けられているのはご存知の通り。これが問題で、極端な話、半分以上の回答者がこのボックスにチェックを入れたら、集計しても参考材料にならないのだ。

麦焼酎「二階堂」は、ぼくが気に入っているコマーシャルだ。「イエスとノー。その間にはなにもないのだろうか?」 この語りを耳にするたびに、「そんなことはない。何でもあるでしょう」と内言語でつぶやくぼくだ。しかし、こと上記のアンケートに関するかぎり、「はい」と「いいえ」の二者択一にしないと意味がない。もっと言えば、設問も「あなたはコーヒーを一日に3杯以上飲みますか?」と具体的にしたほうがよい。論理思考というのは、現実的には少々ありえなくても、あるいは少々ぎこちなくなっても、「どちらかと言えばイエス」「どちらかと言えばノー」と極論しないと成り立たないことがある。

イエスと答えたら「なぜ?」と、ノーと答えても「なぜ?」と、それぞれ説明を求められる。それが嫌だからイエス・ノーを避ける。「どちらとも言えない」なら説明を免れる。説明の責任から逃げたければ「わからない」がいい。だから、みんな「わからない」で済ませる。

「甲乙つけがたく、五分五分」――実は、この意見こそ、もっとも説明を要するものなのだ。そういう組織風土や社会的風潮をつくらないと、ロジカルシンキングに出番はない。