類似性への気づき

論理思考の研修経験は豊富であるものの、何もかも承知しているわけではない。ある程度詳しい分野もあるが、きっちりと誰かに説明する段になると話は別である。他者に説明できないのは十分にわかっていないからなのだと自覚している。だいたい論理学で扱われる、〈演繹〉や〈帰納〉などの用語につきもののペダンティック臭が気になる。と書いて、この「ペダンティック」などということばがその最たるものだと気づく。これは衒学的という意味。やれやれ、日本語で説明してもやっぱり鼻につく。「オレは知識があるぞと、ひけらかすこと」である。

未だによくわかっていると胸を張れないのが、最重要語である〈論理)、そしてその形容詞である〈論理的ロジカル〉の意味である。論理学で扱う論理という用語になじむ前に、「あの人(またはあの人の話)は論理的ではない」というように日常的な使い方を身につけてしまっている。ここから、論理が「筋の通っていること」、ひいては話の中身にまで立ち入って「矛盾していない、理路整然としている、明快である、わかりやすい」などと理解する癖が身についてしまっている。これはこれで必ずしも都合が悪いわけではないが、論理学では論理という用語をもっと素っ気なくとらえてしまう傾向がある。

ついこの間も、〈推論〉と〈類推〉の違いについて聞かれた。専門用語辞典のほうが精度が高いのはわかっているが、この質問を誰かにしなければならない人が辞典を読んで細密な定義の相違を理解できるはずがないのである。論理学者が耳にしたら怒るかもしれないけれども、手ほどきというものはおおむね大づかみなものなのだ。「推論は一つまたは複数の前提から結論を導くこと。類推は、この前提のうちに別の確証性の高い何かとの類似を見い出して結論を導くこと」と説明した。

そして、「論理というのは、中身のことではなく、推論の型のこと。前提を認めたら結論を認めざるをえないような型ならば論理的と言える」と一言付け加えた。これが余計なお世話で、質問者を混乱させてしまったかもしれない。わかりやすく解説しているつもりだったが、やっぱり「ペダンティックで衒学的で内包的定義」に過ぎる。ほんとうに嫌になってしまう。隙間なく規定された体系というものは、用語を精密部品のように操ることを強制するのである。


Xという前提からYを導く推論」を論理学で学ぶときはたいてい答がわかっている。「生卵を硬い床に落とすと(X)、割れてしまう(Y)」という具合だ。この推論は、Xという原因からYという結果が生まれるという因果関係を扱っている。論理の前に経験でわかってしまう。ところが、現実世界ではこうはいかない。「この広告を掲載すれば(X)、売上倍増になるだろう(Y)」のように、XYという結果をもたらすには、X以外にどんな前提が必要かという点まで考え抜かねばならないのである。

差異がわかっているから類似に気づき、類似がわかっているから差異に気づく。類似と差異はワンセットだ。AというパンとBというパンの味がよく似ている。Aに使用している小麦の産地がCなので、Bのパンもそうかもしれない――これが類似による類推(あるいは類比アナロジー)である。推論の蓋然性、つまり、「ありそうなこと」は定まらない。

「いま確かなことは三つだけである。一つ目は顧客の価値観が多様化していること。二つ目は顧客の願望が高度化していること。そして、三つ目は、この二つ以外に確かなことは何一つないということだ」。

これはフィリップ・コトラーのことばだが、要するに、確かなことは二つしかないということをデフォルメしたものである。ところで、ポンペイの遺跡で有名なヴェスヴィオ火山の噴火で亡くなったプリニウス1世(紀元23年-79年)に「唯一の確かなことは、確かなものなどないということだ」というのがある。コトラーはこのことばをもじったのか。それとも偶然の類似性か。いずれにしても、類似性に気づくためには、ある事柄を既に知っている別の事柄と照らし合わさねばならない。差異も同様である。気づくとはそういうことなのである。

ロジカルの程度

論理的という意味と同等に「ロジカル(logical)」が使われ定着するようになった。まずロジカルシンキングが目立つが、ロジカルリスニングにロジカルライティングというのもある。ロジカルスピーキングやロジカルコミュニケーションも研修タイトルとしてよく耳にする。実際、ぼくもロジカルシンキングとロジカルコミュニケーションという名称の研修を実施するが、以前も書いたように、シンキングよりもコミュニケーションに力点を置く。

上記のカタカナで呼称される研修は、思考力と言語の認知・伝達力の強化を主たる目的としている。しかし、論理的思考が成されているかどうかを直接的に知ることはできない。「きみは論理的に考えているかい?」と尋ねて、「はい、以前に比べてより論理的に考えることができるようになりました」と答えが返ってきたから、論理的思考ができている? そんな馬鹿げたことはないわけで、彼が論理的に考えているかどうかは、少々対話をしたり問答を交わしたりして判明する。思考と言語は論理的に同期するから、だいたい言語による説明や伝達ぶりを観察すればロジカルであるかそうでないかが明らかになる。

かつて「ロジカル度テスト」なるものを実施していたが、これは純然たるお遊び。論理学習を食わず嫌いしないようにと配慮したものだった。研修の冒頭でロジカル度を自己採点して、各自の点数に苦笑いしたり胸を張ったりしてもらったまでである。言うまでもなく、ロジカルに程度などない。ロジカルかロジカルでないかのどちらかしかない。デジタル的な「10」である。「あの人は彼女よりもロジカルだ」と言えなければ、「この文章はとても論理的である」とも言えない。ロジカルに比較級も強調もない。あの人(あの文章)は論理的であるか非論理的であるかのいずれかなのだ。


ロジカルと同じように、比較級変化せず、また形容詞の修飾を受け付けないのが、固有を意味する「ユニーク(unique)」。「とてもユニーク」や「きわめて固有の」などは日常会話では当たり前になっているが、よくよく考えれば、ユニークにも程度はない。ユニークかそうでないかである。「この作品はあの作品よりもユニークだ」とつい言ってしまいそうだが、「この作品はあの作品よりも固有だ」がありえないことは何となくわかってもらえるだろう。

ロジカルを「筋が通っている」に置き換えれば、「半分筋が通っている」という状態が奇異であることがわかる。あるいは、「一部脱線したり寄り道していたりするが、おおむね筋が通っている」も矛盾を抱えている。筋が通ると断言するかぎり、横道に逸れたり途切れたりしてはいけない。筋が二本通ってもいけない。通る筋は一本のみ、しかも真っ直ぐでなければならない。これこそがロジカルの本質なのである。

繰り返すが、人は少しだけロジカルになったりだいたいロジカルになったりできない。ある言説が前提と結論という構造をもつとき、その文章は論理的か非論理的かのいずれかである。「ぼくは生卵を手にしている。床は硬い大理石である。手を高く掲げて卵を床に落とせば割れるだろう」という推論はロジカルであり蓋然性も高い。但し、ロジカルであることと蓋然性があることはイコールではない。後者は現実に起こるかどうかの話である。もしその生卵が割れなかったとしても、上で成された推論がロジカルであることに変わりはない。