ネタバレと学習

Okano Note.jpg本ブログ〈Okano Noteオカノノート〉を始めてまもなく5年になる。およそ750本ほど書いてきただろうか。「あれを読んでいると、きみの意識の視線の先が何となく見えてくるよ」と知人がつぶやいたが、それはそうだろう。意識が乏しいテーマを取り上げるはずもないのだから。

ぼくは28歳の頃から、気になる事柄や術語を気の向くまま小さなノートに書き込み、自分なりの考えをしたためてきた。企画や講演という仕事柄、なるべく特定ジャンルに縛られることなく、広く浅くセンサーを多方面に向けてきたつもりである。小さなノートはぼくにとっての「ネタ帳」であり、そこに書き込んできたおびただしいテーマを企画や講演に生かし、このブログも書いてきた、という次第である。
同業界にはネタを小出しにする人もいるし、ぼくのように出し惜しみせずに自らネタを割ってみる者もいる。出し惜しみしないことを威張っているわけではない。ただ、秘伝のタレを守るような、一つの価値観に執着する生き方がどうも性に合わない。手持ちのネタや出所を公開することによって、ぼくは新ネタを仕込まねばならぬ。これはとてもきついことなのだが、そうすることによって無知化しかねない自分を叱咤激励できているような気がする。

映画好きだが、最近はあまり映画を観ていない男がいる。さほど映画好きでもないが、最近ちょくちょく映画を観るのがぼくだ。二人でランチしている時に、週末にぼくが観た映画のことを話したら、「どんな感じでした?」と興味を示したので、高速であらすじを喋り始めた。さわりに差し掛かったところで、突然彼は「ああっ~、ネタバレ~」と叫び、勢いよく両手で耳を覆った。ちなみにネタバレというのは、彼のような未鑑賞者の楽しみを奪うことに用いられる。「きみが聞きたそうだったから、話しただけじゃないか」と言って、ぼくはシナリオの顛末直前で話すのをやめた。
人というのは不思議な学習者である。興味のあることは聞きたい知りたい、しかしすべてを明かされるのは嫌で、ここぞというところは自分で見つけて感動したいのである。ところが、さほど興味のないことについては、その全体のことごとくを他人から教わって平然としている。いや、むしろ、やむなく学ばねばならないことなら、自分で知る楽しみも放棄してネタバレを大歓迎してしまうのである。
そもそも学習とは人や本によるネタバレにほかならない。ぼくたちの知識の大半はネタがそっくりバラされて形成されたものだろう。小説・映画と研究論文などのネタバレ感覚が違うことは認めるが、どちらにせよ、鑑賞したり学習したりするのはネタがバレていく過程なのである。ネタは欲しいがおいしいところはバラさないでくれと言うのなら、独学に限る。たとえば一冊の本を読んでネタを仕入れたら、究極の歓びを自らの想像で仕留めればよい。
なお、ネタとは「タネ」を逆さ読みした隠語である。アイデアのネタ(情報)、鮨ネタ(素材)、手品のネタ(仕掛け)など、ある究極形を生み出すための鍵にほかならない。ぼくもネタを仕入れ仕掛ける。それを公開しても何も困らない。なぜなら、同じネタを用いても究極形が違うからである。

「絵になる話」のための演出

初めての試みだったそうである。ぼくにとっても初めての体験だった。昨日の講演は美術館。場所は栃木県の文化の森に建つ宇都宮美術館だ。階段状の講義室が会場で、演台の置かれたステージが一番低い構造になっている。上目線ではないので、話しやすく聴いてもらいやすいしつらえになっている。

美術品を蒐集する美術愛好家ではない。だが、なまくら四つではあるものの美術一般に惹かれて生きてきたぼくである。館内に足を踏み入れた瞬間、わくわくし始めた。十年ほど前、研修が明けた翌日にこの美術館に連れてきてもらった。都会の雑踏を完全に遠ざけているので、アート鑑賞とちょっとした散策にはもってこいの立地である。

講演が終わって、講演内容に後悔はしていないし大きな失点もなかったと自己採点している。しかし、いつものように「もっと工夫する余地はなかったか?」と自分に詰め寄れば、ないことはない。環境、アプローチ、ファサードと近代美術館にふさわしい舞台だったのだから、もう少し絵になる演出ができたのではないか。いや、ハードウェア的には無理。だが、「絵になる話、話し方」ができたかもしれないと振り返っている。


演題は『マーケティングセンスを磨く』。愉快ネタや美学的タッチも仕掛けてあるのだが、やっぱり実学的テーマである。ノウハウ系の話は、どちらかと言うと、ドキュメンタリー写真のような構成になりがちで、なかなか「絵になる構図の話」にするのが難しい。会場が美術館らしいということは承知していたが、駅まで迎えに来てもらえるので、さほど意識がそこに向いていなかった。これからはTPOをもっとよくチェックする必要がありそうだ。

絵を描くための材料とマーケティングツールの対比、絵画技法とマーケティングの方法論、キャンバスと市場、構図と戦略、額縁と囲い込み、作品と広告、鑑賞と価値創造……100パーセント即興では無理かもしれないが、一週間前にこのような類比をしておけば、もっと色彩感が横溢する空気を醸し出せただろう。実学マーケティングもアートとのコラボレーションによって親しみやすくなる可能性はある。

「話が絵になる」。これには二通りの意味がある。話の中身・話し手・立ち居振る舞いや小道具・照明など演劇的印象を与えるというのが一つ。もう一つは、音の組み合わせであることばが文になりストーリーになり、やがて絵になって見えてくるという効果。講演における来場者を、聴講者、聴衆、受講者などと呼ぶが、「講演を観てもらう」という「観客」としてもポジショニングしてみたいと思う。

ツケの大きい先送り

今夜、今から3時間後にマーケティングについて2時間弱の講演をおこなう。この内容についてすでに三週間前に資料を主催者側に送り、準備万端であった。ところが、講演で使用するパワーポイントを今朝チェックしていてふと思った―あまり早く準備するのも考えものだと。

全体の流れや構成は全部アタマに入っている(自作自演するのだから当たり前だ)。しかし、集中して編み出したアイデアやディテールについては、別にダメだなどとは思わないが、時間の経過にともなってピンと来ない箇所があったりする。「これ、何を言おうとしたのかなあ?」という、瞬間の戸惑いだ。それも無理はないと自己弁護しておく。話であれ書いたものであれ、話して書いた瞬間から賞味期限が迫り、やがて切れていくのだから。

しかし、効率という点からすれば、講演なら一週間くらい前に準備してアタマに入れておくのが、ちょうどいい加減なのかもしれない。そんなことを午前中につらつらと考えていた。


「先手必勝」や「善は急げ」や「機先を制する」などという言い伝えと同時に、「急がば回れ」や「急いては事を仕損じる」などの価値が対立する諺や格言が存在する。いずれにも真理ありと先人は教え諭してきたのだろうが、凡人にとってはどちらかにして欲しいものである。つまり、急ぐのがいいのかゆっくりがいいのか、あるいは、早めがいいのか遅めがいいのか―ズバッと結論を下してもらったほうがありがたい。すべての諺を集大成すると、堂々たる「優柔不断集」になってしまう。

だが、ぼくは自分なりに決めている。自分一人ならゆっくり、他人がからむならお急ぎである。講演は他人がからむ、資料は他人に配付する。だから早めに準備しておくのが正しい。二度手間になってもかまわない。できるときにしておくのがいい。善は急げとばかりに、さっき一ヵ月後の研修レジュメをすでに書き上げスタンバイさせた。


膨大な企画書を何10部もコピーしてプレゼンテーションしなければならない。そんな企画書が提案当日の午前にやっと出来上がる。プレゼンテーションはお昼一番だ。一台しかない複写機がフル稼働する。ランチをパスしてホッチキス留めして一目散に得意先に向かう。何とか三十分後に到着し、無事に会合に間に合った。しかし……

企画書を手にした部長が一言。「この企画書、まだ温かいね」。そう、鋭くも的確な皮肉である。「この企画はたぶん熟成していない。したがって、検証不十分のまま編集されたのだろう」と暗に示唆するコメントであった。ご名答! である。ぼくの体験ではない。若い頃に目撃した、ウソのようなホントの一件である(実際にコピー用紙は温かかったのだ)。仕事の先送りは、熟成を遅らせることであり、ひいては検証不能状態を招くことなのだ。

グズだから怠け者だから先送りするのだろう。しかし、生真面目な人間であっても、ついつい先送りを容認して習慣化していくと、グズになり怠け者になっていくのである。ぼくは、その両方のパターンを知っている。その二人とも働き盛りなのに、ツケの返済に日々追われて創造的な先手必勝の仕事に手が届かない。