ことばを遊ぶ

暇つぶしに辞書を読む人がいた。調べる対象となる用語を決めて読むのではなく、調べるついでに別のページをめくって読むという感覚らしい。ぼくにもそんな覚えがある。ある語を調べたついでに辞書の中を徘徊していたという経験なら誰にでもあるに違いない。但し、手持ちぶさたなときに首尾よく辞書が手元にあるとはかぎらない。それもそのはず、辞書を携えて外出することなどほとんどありえないのだから。また、辞書というものは、時間と場所をわきまえずに引けるものでもない。

それにしても、ことばには我を忘れさせる愉快な魅力がある。辞書にのめり込むと、飛び石伝いにことばは別のことばへと連なっていく。たとえば、一昨日のブログでたまたま「曲学阿世」という四字熟語を使った。そして、書いてからしばらく凝視していたら、阿世の「阿」という文字が気になってきた。大阪市内の南東部にある「阿野」という地名は身近な存在である。同じ「あべの」でも、近鉄の駅は「阿野橋」と書く。「倍」と「部」の違いがある。こんなことを思い巡らすうちに、阿がますます不思議な造形に見えてきた。

阿は、表記としては稀だが、「阿る」という動詞として使われる。クイズ番組の国語の問題に出そうな難読字で、当てれば「ファインプレイ!」と褒められるだろう。「おもねる」と読む。へつらうという意味だ(へつらうも漢字で書けば「諂う」で、これまた難読字だ)。ここから先、辞書世界に埋没していくことになる。「阿諛あゆ」という語を思い出して調べ、これが世間に媚び諂うという意味で阿世に通じていることがわかる。阿とは「山や川の曲がって入り組んだ箇所」だと知る。阿と安は万葉仮名の「あ」を代表している……などなど。


略語系はやりことば
これも遊べる。遊びというよりも「もてあそび」に近い。ぼちぼち「古い!」と言われそうだが、“KY”なる略語に未だに違和感がある。これで「空気読めない」としたのはセンスが悪いのではないか。KYなら「空気読める」の略でなければならない。空気が読めないのなら“KYN”ではないか。あるいは“Not KY”だろう。“AKB48″は「あくび48回」と読める。「今年はお世話になりました、来年もよろしくお願いします」を“KONRYO”とするのはやり過ぎかもしれない。

ツイッター
タレントが元夫の不倫をツイッターで流した一件で、「ツイッターはつぶやくものだから、あんなメッセージは度を越している」と誰かが言えば、「もはやツイッターにそんな原初的な純粋機能などはない」と別の誰かが反論している。すべてのことばは早晩発祥時の意味を変えて、はやったり廃れたりしていく。ことばが生き残るかぎり、意味は変遷しおおむね多義を含むようになる。よく語の起源はこうだった、にもかかわらず現在はズレてしまったなどと批判されるが、変化を批判しても詮無いことである。ツイッターは「つぶやき」を起源としたかもしれないが、誕生と同時に「無差別ばら撒きビラ」の機能も併せ持ったのである。

草食系
一年ほど前の調査だが、肉食系を「貪欲で積極的に活動する人」という意味にとらえ、対して、草食系が「協調性が高く優しいが、恋愛などに保守的になりがちな人」と考える傾向が明らかになった。動物界では、草食系のほうが肉食系よりも行動的な気がするのだが、どうだろう。猛獣は明けても暮れても動かないし、食事は腹八分目で比較的禁欲的である。草食系の協調性は保全のための群れの行動である。草を求めてよく移動するし、肉食系よりも食欲旺盛ではないか。

ことば遊びに正解はない。遊びの本領はイマジネーションにある。そして、ことばの意味についてあれこれと思い巡らすことが、おそらく概念的に考えるということにつながっている。

表現にみる発想の違い

日本語でも外国語でも初めて見る用語や不確かな単語は辞書で調べるのがいい。推測は危険である。推測のひどい形が、他人から尋ねられ、知ったかぶりしてでっち上げるケースだ。その昔、ビールを飲まない英語教師が、「先生、ビール瓶のラベルに書かれている”エル、エー、ジー、イー、アール”はどういう意味ですか?」と生徒に聞かれた。その教師は“l-a-g-e-r”と人差し指で綴り、「それは、より大きな、つまり大瓶という意味だね」と捏造した。

言うまでもない、“lager”は「ラガー」というドイツ語由来の「貯蔵」ということばだ。低温で貯蔵熟成させるビールの総称であって、“larger”(より大きな)とは綴りが違っている。捏造した教師はその場を切り抜けることはできなかった。なぜなら、尋ねた女子生徒が「そうなんですか。でも、小瓶にもその綴りが書かれているんですが……」と追い討ちをかけたからである。生兵法は怪我のもと。その道のプロと言えども、いや、その道のプロだからこそ、知らないことは確かめねばならない。

外国語に関して言えば、和製英語にたくさんの落とし穴がある。ぼくは1970年代の前半に数年間英語教授法の研究に携わりながら自らも英語講師として現場で授業を担当していた。ぼくが英語を学ぶ前から「ナイター」や「サラリーマン」などの和製英語はふつうに使われていた。なかなか創意工夫された表現だとは思うが、前者が“night game”、後者が、まったくイコールのニュアンスにはならないが、“employee”“office worker”である。さきほど和製英語ランキングというサイトを覗いたら、「オーダーメイド」「スキンシップ」「コンセント」の三つが上位を占めていた。それぞれ順に“custom-made” “personal contact” “outlet”が正しい英語と書いてある(但し、私見では、スキンシップ(和)とパーソナルコンタクト(英)を単純対応させるのは危険。文脈的翻訳が必要だろう)。


和製英語に厳しい向きもあるが、文化比較の材料になっておもしろい。もともとの英語が日本風土でなじめないとき、特に発音しにくい時にこなれるようにアレンジされる。連日サッカーの試合で盛り上がっているが、あの「ロスタイム」は和製英語である。試合の前半・後半のハーフ45分間のうちに「ケガなどによって中断され、失われた時間」を意味している。とてもわかりやすいが、不思議な表現だと思わないだろうか。「ロスタイム3分」というのは、「失われた時間は3分」と言っているにすぎないのだ。だから何、だからどうするかなどまで言及してはいない。

英語ではちゃんと言及している。“Additional time”(アディショナルタイム)と呼んでいて、失った時間を足して「追加の時間」と表しているのである。この一例だけで比較文化を気取るわけにはいかないが、とても興味深いではないか。わが国でロスタイムと「現象」を表現するのに対して、英語では「対策」のほうを表現しているのだ。わかりやすく言えば、「失う」ほうを強調するか「足す」ほうに力点を置くかの違い。時間を還付するのであるから、英語のほうが適切だ。しかし、ロスタイムは言いやすくわかりやすい。

「ああ、失くしちゃった」と言うか、「さあ、足しちゃおうか」と言うかの違い。そして、「失くした」と言いながら「足す」の意味に転用している。それがロスタイム。まるで、「転んだ」を「起き上がる」に使っている感じだ。そう言えば、野球用語にも和製英語がいくつかある。たとえば、おなじみの「デッドボール(死球)」。これは打者に当たった後に転がったボールが主役。英語では“hit by pitch”で「投球による(打者の身体への)当たり」という意味で、目線は人に行っている。

ちなみに“bases on balls”とは「審判による四つのボール判定によって打者が一塁に出ること」。これを明治の時代に「四球」と訳した。感服する(ほとんどの野球用語は正岡子規が訳して広めたことはよく知られている)。この四球、メジャーリーグの中継を英語実況で観戦していると、ほとんどの場合“walk”と言っている。打って一塁へ走るのではなく、堂々と「歩いて行ける」からウォークだ。この四球とウォークの関係が、ロスタイムとアディショナルタイムの関係に似てはいないだろうか。ここでも前者が現象、後者が対策になっている。もちろん、興味本位に見つけた事例であって、二例を以て一般法則を導くつもりなどさらさらない。

定義の「たかが」と「されど」

定義の話、再び。昨日のブログを読み返してみたら、定義に対して批判的とも受け取られかねないトーンが漂っていた。所詮誰かが勝手に決めたもの、「たかが定義」という見方がないわけではない。けれども、仕事柄、定義が使えないと困り果てるのはぼくである。だから、「されど定義」という常套句でもう一方の本意も吐露せねばならない。

仕事中に辞書を引いて遊んでいるように思われるかもしれないが、それも誤解である。実を言うと、来月の私塾の”ラフスケッチ”を描いているのだが、定義がとても重要な出発点になりそうなのだ。講座のテーマは『構想の手法』。構想の手法の構想を練っているというわけである。構想の定義については、週明けまでにはぼくなりの方向性がまとまるはず(まとまらないと、講義の構成が立たない)。今日のところは、もう少し定義一般について考えてみたい。

昨夜と今朝、いくつかの辞典で「ていぎ【定義】」そのものを調べてみた。するとどうだろう、ぼくが昨日大胆に書いた意見を裏付けるかのように、「意味の制限」こそが定義のありようを示しているという確信が得られた。定義とは「ある事物を表わす用語の意味や適用される範囲をこれだけの条件を満たすものだと定めること」とある辞書には載っており、また別の辞書では「ある概念やあることばを他のものと区別できるよう限定すること」と書かれている。いずれにも、範囲指定、条件適合、差異・区別、限定などがうかがえる。


広辞苑は丁寧に――と言うか、ややムキになって哲学っぽく――説明している。箇条書きに分解すると次のようになる。

(1) 概念内容の限定
(2) 概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし、他の概念から区別すること
(3) 概念の属するもっとも近い類を挙げたうえで、その概念が体系内で占める位置を明らかにすること、さらに種差を挙げてその概念と同位の概念から区別すること。

「たかが定義だが、やっぱりされど定義なんだなあ」というのが、難解な定義を読みながらの率直な気持である。要するに、あれもこれも言いたいところを欲張らずに我慢しないと定義にならないのだ。「内包」という難解な用語は、内部にもつ共通の性質のことで、たとえば「筆記具」なら「書くもの、手で操るもの、芯をもつもの、先のあるもの」などとなる。これらの属性は、たぶん万年筆、ボールペン、シャープペンシル、筆ペンなどに共通している。ここまでが上記の(1)(2)が言わんとしていることだ。

(3)はさらに難解だが、広辞苑は格好の例を挙げている。「人間とは理性的な動物である」と定義する時、「理性的な」が種差で、「動物」が類概念となる。定義は手間のかかる作業で、あらためて「されど」を感じてしまう。ところが、ちょっと待てよ。「人間とはXXXYYYである」という定義はいくらでも、極端に言えば、人の数だけ創意工夫できるわけだ。「人間とは油断するとすぐに怠ける哺乳類である」でも思い当たるフシがあるから、「理性的な動物」ほどではないが、共通観念にのっとった定義になりえるだろう。気をつけないと、定義の絶対視には偏りがあるのだ。この思いが昨日のブログで「たかが」を醸し出したに違いない。

セレンディピティがやって来る

辞書の話題から書き始めた1212日のブログ。その中で刑事コロンボの例文を紹介した。昔はテレビのドラマを欠かさずに観ていたが、コロンボの話に触れたのは何年ぶりかである。四日後、コロンボ役男優ピーター・フォークが認知症になっていることをAP通信が報じた。

これなど、点と点の同種情報が結ばれた例である。ブログの記事は自発性の情報、AP通信は外部からやってきた情報。後者を見落としていたら、ブログでのコロンボは孤立した一つの点情報で終わる。たまたま新聞記事を見つけたので、四日前のブログと結びつく。但し、このように情報どうしが偶然のごとく対角線で結ばれることのほうが稀だ。情報でもテーマでも強く意識していないと、関連する情報をいとも簡単に見過ごしてしまう。情報行動は点で終わることが圧倒的に多く、めったに線にはなってくれない。対角線がどんどんできるとき、アタマはよくひらめき冴えを増す。

同種情報のほうが異種情報よりもくっつきやすいのは当然だ。「類は友を呼ぶ」の諺通り。しかし、しっかりと意識のアンテナを立てていると、アタマは「不在なもの、欠落しているもの」にも注意を払うようになる。本来ワンセットになるべきなのに、片割れがない場合などがそうだ。たとえば、ネクタイの情報に出会うと、その直後にワイシャツの情報に目配りしやすくなる。見えているのは山椒だけだが、この時点で「うな重」への無意識がスタンバイする。

さらに、ひらめき脳が全開してくると、まったく無関係な情報どうしの間に新しい脈絡や関係性が見い出せ、両者を強引に結び付けてみると想像以上にすんなりまとまったりする。


もっとすごいのは、特に探していたわけでもないのに、ふと思いがけないアイデアや発見に辿り着く不思議の作用である。これが、最近よく耳にするようになった〈セレンディピティ〉だ。いろんな日本語訳があるが、偶然と察知力を包括する「偶察力」が定着しつつある。このことばを知ってから最初に読んだのが、『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)だ。

この本の随所で、自分自身の潜在的な知識がむくむくと目を覚ます体験をする。たとえば、ノートにメモしたもののすでに忘れてしまっていた「シンクロニシティ(共時性)」に出会う。そして、「時を同じくして因果関係のない複数の意味あることが発生する現象」についての知識が顕在化した。さらに、たとえばイタリアの作家ウンベルト・エーコの見解「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」が紹介されている箇所。ぼくはその一週間前に当時独習していたイタリア語の教本の中で、このウンベルト・エーコを紹介するコラムを読んでいた。


ある点に別の点が重なろうとしている偶然に気づくのは、意識が鋭敏になっている証。点と点が同質であれ異質であれ、頻繁にこんな体験をするときは自惚れ気味に波に乗っていくのがいい。願ってもみなかった予期せぬご褒美とまではいかなくとも、僥倖に巡り合うための初期条件にはなってくれるかもしれない。まもなくクリスマス。プレゼント選びに疲れきった大人たちに、セレンディピティという贈り物が届くことを切に願う。