明快表現のパラドックス

「意味の共有」はコミュニケーションの重要な原義の一つであった。他者に自分の意図を伝えて理解してもらうことであるから、現在もなお必要不可欠なコミュニケーションの機能である。言うまでもなく、言語を通じて共有化する意味は、不得要領ふとくようりょうであるよりは明快なほうが望ましい。丁寧で遠回しな表現では意味理解に時間を要する。むしろ、少々露骨であっても単刀直入な言い方のほうが意味は伝わりやすいのである。

対象や現象をものの見事にピンポイントで表現できればどんなに気持ちがいいことか。しかし、百万言を費やしてもそんな気分になれることは稀である。語彙が豊富な表現上手にとっても、最適語でメッセージを言い表わそうとする課題はおそらく生涯つきまとうに違いない。対象や現象なら、文字通り、ある程度「かたどどられている」が、観念や感情の意味となると、つまびらかに語り尽くし書き留めるのは難業である。

繰り返すが、ある事柄の輪郭を鮮やかにとらえてその内実を浮き彫りにするのは容易ではない。だが、自分と他者が意味を共有するためには避けて通れない試練である。にもかかわらず、ぼくたちはなぜその試練に立ち向かわないのか。好球を必打するようにことばを駆使しようともせずに、なぜ敢えて表現を迂回させようとするのか。迂回とは持って回った婉曲的語法のことである。差し障りのないよう、穏やかに、また露骨にならぬよう「ぼかしことば」を頻繁に用いるのはいったいどうしてなのだろうか。


人にはトラウマがあったり語りえぬ苦悩があったりする。社会には触れてはならぬタブーがあり、他者の心情や人権への配慮が求められる。今さら肝に銘じるまでもなく、まずまずの良識を備えていればわかることである。そう、良識ある人々は差別的表現を遠ざけようと意識する。差別的なことばは具体的で直接的な表現の一種なのである。ある意味で、名と実が近接して関係が明快なのだ。明快であるからこそ具合が悪い。したがって別のことばに言い換える。ここにぼかしことばの出番がある。

数年前からボケや痴呆症を「認知症」に言い換えようと厚労省が主導してきた。言い換えても実体に影響を及ぼさないが、従来の表現で苦痛を覚えてきた人たちの気持ちをやわらげることはできる。それでも、『ボケになりやすい人、なりにくい人』という書名の本は存在するし、普段の会話では「痴呆症」ということばを耳にする。差別語論はさておき、痴呆のほうが明快であり事態の深刻性を醸し出している。認知症を病だと「認知」していない人もいる。「認知していればそれでいいではないか」というわけである。

言い換えられた新語で傷つく人もいる。人にはそれぞれの痛みの「ツボ」があり、すべてのことばが万人に快く響くわけではない。婉曲表現のそのまた婉曲表現などということになれば、意味を共有するどころか、会話そのものがなぞかけ合戦と化してしまう。表現をぼかせば通じにくくなり、これではいけないとばかりに明快な表現を用いると相手に棘が刺さってしまう。これが明快表現のパラドックスである。パラドックスではあるが、別に悩むことはない。綱渡りさながら明快な表現を探し工夫することに躊躇する必要などさらさらないのである。

理屈を超えるひととき

出張が10日間ほどない。この間に研修や講座のコンテンツづくりとテキストの執筆編集をすることになる。先月の中旬から5本同時に取り掛かってきた。完全オリジナルが3本、あとの2本が編集とバージョンアップ。だいぶ仕事がはかどり、残るはオリジナルの2本。テーマは「東洋の古典思想から仕事をメンテナンスする話」と「問題解決の技法と知恵」の二つだ。自分で選んだテーマとはいえ、いずれも難物。もちろんわくわくして楽しんでいるが、理の世界につきものの行き詰まりは当然出てくる。


こんな時、わざとテーマから外れてみることにしている。完全に外れるということではなく、テーマを意識しながら、敢えて迂回してみるのである。迂回の方法にはいろいろあって、読書で行き詰まったら人間観察に切り替える。構成がうまくいかなかったら、出来上がったところまでを一度分解してみる。文字通りの「遠回り」もしてみる。

オフィスの近くに寺があるのだが、最近は反対方面にランチに行くことが多い。しかし、いったん寺の前まで出てから裏道を通ってお目当ての店に行ってみるとか……。早速効果てきめん、その寺の今月のことばが目に入ってきた。

「善いことも悪いこともしている私。善いことだけをしている顔をする私。」

筆を使って読みやすい楷書体で書いてある。昔からある禅語録もそうだが、現代版になってもうまく人間のさがを言い当てるものである。「これは見栄のことを言っているのか、それとも実体と表象の永遠のギャップを指摘しているのだろうか」などと考えながら、メモ帳に再現しつつ蕎麦を口に運ぶ。蕎麦を食べ終わり、次のようにノートに書き留めた。

見栄というものはよりよい人間になるうえで最強の敵なのかもしれない。ぼくたちは偽善的にふるまおうとし、己を正当化しようとし、非があってもなかなかそれを認めようとしない。人間だから手抜かりあり、怠慢あり、ミスもある。時には、意識しながら、してはいけない悪事にも手を染める。その実体のほうをしっかりと見極め認めること。「自分には善の顔と悪の顔がある」ことを容認する。これこそが人間らしさなのか。

理屈を超えた文言に触れ、理以外の感覚を動かして、それでもなお結局は理屈で考えてしまうのだけれど、そのきっかけをつくる刺激の質がふだんと違っている。ここに意味があるような気がする。


ぼくのオフィスと自宅周辺から南へ地下鉄を二駅分ほど下ると、谷町六丁目、谷町九丁目という界隈があり、何百という寺院が密集している。現代的なビルの装いをした寺もある。それぞれの寺が「今月のことば」を門のそばに掲げている。休みの日、寺内に入らずとも、散歩がてら文章を読むだけでもおもしろい。2か月前には次のようなものを見つけた。

「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。」
「花を愛で、根を想う。」

前者が「ギブアンドテイクのあるべき姿」、後者が「因への感謝」。こんな具合に自分なりにタイトルをつける。すなわち意味の抽象。

伝えたいことを必死で言語化する「所業」を卑下するつもりはない。専門的僧侶でないぼくが言語から離脱して悟りの境地に到らなくても誰も咎めないだろう。とは言え、言語理性に凝り固まりがちなアタマの柔軟剤として、「意味不足の表現」や「行間判じがたい表現」に触れることには意味がある。「半言語・半イメージ」を特徴とする俳句などもそんな役割を果たしてきたのだろう。俳句に凝った十代の頃を懐かしく思い出す。