日本人の国際感覚

「日本人の国際感覚」などの素朴なテーマほど厄介なものである。昨日や今日になってこのテーマに触発されたわけではない。それどころか、ずいぶん長く付き合ってきた。英語や比較文化に関心を寄せた頃からなので、かれこれ40年にはなる。さらりと日本人の国際感覚と言ってのけるほど、対象とする日本人が単一でも同質的でもないのはわかっている。しかし、さほど神経質になって多種多様に類型化することもないと最近思うようになった。

国内に引きこもろうが世界を舞台に活躍しようが、環境や状況とは無関係な日本人的国際感覚がありそうだ。国際感覚のしっかりしたコスモポリタンだと思っていたら、国際感覚とは名ばかりのローカルジャパニーズであったりする。頻繁に海外に出掛けたり長く海外に駐在したりしていたにもかかわらず、変わらぬ日本人的脆弱さを引きずっている人たち。ぼくには「国際度偏差値」の高い友人や知人が大勢いるが、彼らが外国人とほんとうに丁々発止のコミュニケーションをしてきたのだろうかと、大いに疑問を抱くことが少なくない。

曖昧でしっくりこない表現だが、敢えて「平均的日本人」ということばを使うなら、自他ともに認める国際派日本人でも、平均的日本人の国際感覚しか持ち合わせていなかったりする。世界で活躍するお偉方たちのほとんどが日本的感覚に縛られた「現象的国際人」にすぎないのである。日本的な国際人はいくらでもいるのだが、国際的な日本人にはめったにお目にかかれない。したたかな国際感覚を磨いておかなければ、真に強い国際適応力ないしは国際競合力を備えることはできないだろう。


では、国際感覚とは何だろうか。世界の人々と仲良くビジネスをして交流していれば身につくものなのか。答えは明白にノーである。誰も他人ともめたくないだろう。他人が日本人であれ外国人であれ、できることならいがみ合わず、衝突が起こりそうならば未然に防ぐべく寛容であろうと努め、必要ならば妥協もする。しかし、このような融通無碍の振る舞いは、やがて無難へと傾き、仲良し友達であろうとするあまり差し障りのない方途を選ぶ結果となる。このような感覚は、実は国際感覚の小さな一部にすぎないのである。

ぼくたちの国際感覚に徹底的に抜け落ちている資質、それは有事における交渉を通じてのソリューションだ。この能力を仲むつまじい国際交流で養うことはできない。もちろん、ここで言うソリューションは、何でもかんでも「ノーと言える日本人」になることではない。勇気をもってノーと言えても、問題や交渉事が解決する保障などない。問題解決こそがゴールであって、ノーかイエスかばかりにこだわっていても功を奏さないのである。

管直人が「会談」と称する首脳どうしのトークを胡錦濤が「会話」と片付ける。わが国首相は手にペーパーを携えて一言一句神妙に発言し、中国の主席はいかにも軽妙に談話する。完全にいなされているように見えたのはぼく一人か。関係好転に向けての努力だけで事が片付かないのが国際舞台の常識である。たとえ雲間に光が射し込む気配を感じても、折り畳み傘の一つくらい用意しておかねばならない。雨はいつ降ってもおかしくない。雨で済めばいいが、嵐が吹き荒れ雷も落ちてくる。のっぴきならぬ事態に直面して逃げ腰になっているようでは真の国際感覚とは言えまい。問題は発生するものであり、いったん発生したら何が何でも解決へと矛先を向けなければならない。問題を水に流し、棚に上げ、なかったことにするような仲良し国際感覚の日本人ばかりでは、早晩舞台の袖から落っこちてしまうだろう。