「それはおかしい」の奇怪

今日も誰かが別の誰かの意見に対して「それはおかしい」と言っている。これがしっくりこない。対話に親しむようになってから数十年、ずっとこの感覚がつきまとう。おかしいという表現は「納得できない」や「変調である」や「論理的に正しくない」などの意味を内包しているが、これらのいずれもが単独で発せられるとき、奇怪なものを感知してしまう。誰かの意見を「おかしい」と評するのは、おかしいのだ! ほら、こういう言い方は奇怪に響くだろう。おかしいに異議を申し立てた手前、ここで話を終えるわけにはいかない。

ABのおこないや発言に「それはおかしい」と突っぱねる。こう評する時、Aの脳裡に「おかしくない基準」が浮かんでいなければならない。つまり、自分がイメージしている「まっとうな何か」に照らし合わせてみて、Bの言い分はその基準から外れている、ゆえに「おかしい」、そして「納得できない」とAは言ったはずである。Aは自分の基準がおかしくなく、Bの基準がおかしいと主張しているに等しいのだ。では、いったいそのような基準をAはどのようにして決めているのか。

Aは、常識、通念、論理、共通感覚に適合していると確信できているのか(もしそうならば、Bも同様の確信をしている可能性がある)。それとも、好みや思いなどの主観的基準によって「おかしい」という烙印を押しているのか。基準が常識、通念、論理、共通感覚を反映しておらず、純粋に主観的であるならば、Aに対するBからの反論も、AからBへの再反論も不毛に終わるだろう。なぜなら、双方が異なる基準によって主張を繰り広げるかぎり、議論は接合しないし平行線を辿り続けるからだ。


もしかすると、常識も通念も論理も共通感覚も主観的に解釈されているかもしれない。ゆえに、明文化されたルールが存在しないかぎり、お互いに取り付く島はない。そもそも「おかしい」の一語で相手の意見を切り捨てようとする者が、しかるべき説明可能な基準を有しているはずがないのである。「それはおかしい」とつぶやいたり声を荒げたりするとき、誰もが「自分はおかしくない」という前提に立っている。そして、ほとんどの場合、その判断基準は「何となく」であって、確たる信念やトポスに支えられているのではない。

ABの二人を再登場させる。Bの発言に対して「それはおかしい」と言い放ったAに、Bが「何がおかしいのか、なぜおかしいのか?」と論拠を尋ねる。基準は何か、何か信念でもあるのか、と聞いてもよい。思いつきで「おかしい」と言っていたのなら、Aはこう答えるだろう、「おかしいものはおかしいのだ」。売り言葉に買い言葉、Bも次のように反論するだろう、「おかしいものがおかしいなどという論法は、おかしいではないか!」 こうして議論は不毛の連鎖を続けてゆく。

おかしいは「可笑しい」と書く。大人げないABのやりとりにぼくたちは失笑するしかない。いや、傍観するぼくたちだって当事者になれば同じように愚昧さを露呈するかもしれない。公の場で論争する立場にあるお偉方でも「ダメなものはダメ」で済まそうとするのだから、小さな仕事や会議にあっては日常茶飯事「おかしいものはおかしい」が噴出するのもうなずける。「可笑しな光景だ」と冗談ぽくシニカルに片付けているのではない。これは、口癖などという甘い話ではなくて、奇怪であり悲劇なのだ。「それはおかしい」を禁句にしなければ、対話など成立しないのである。