時間の不思議、不思議の時間

時計を見て、「午後3時」と確認する。別に何時でもいい。毎日何度か時計を見る。いったい何を確認しているのだろうと思う時がある。そうなると少しまずいことになる。

二十歳前後を最初に、数年に一度の割合で「時間とは何か」に嵌まってしまう。誰もが一度は宇宙や人生に思いを巡らすらしいが、考えているうちに脳に何がしかの異変が起こるのを感じるはず。若い時に脳のキャパシティ以上の難しい命題を多く抱え込まないほうがいい。とか言いながら、若気の至りのごとく、ぼくはかつてその方面に足を踏み入れてしまった。そして、宇宙や人生以上にぼくの頭を悩ませたのが、この時間というやつである。しかも、宇宙や人生とは違って、時間を意識することなしに日々を過ごせない。

時間は曲者である。歴史上の錚々たる哲学者が軒並み「不思議がった」のだ。ぼくの齧った範囲ではカントもフッサールもハイデガーも時間の不思議を哲学した。ずっと遡れば古代ギリシアのヘラクレイトスが、「時間が存在するのではなく、人間が時間的に存在する」と言った。少し似ているが、「人間が存在するから時間が存在する」とアリストテレスは考えた。そして、時間特有の自己矛盾のことを「時間のアポリア」と名づけた。アポリアとは行き詰まりのことで、難題を前に困惑して頭を抱える様子を表わしている。それもそのはず、時間という概念は矛盾を前提にしているかもしれないからだ。

〈今〉はあるのだが〈今〉は止まらない。感知し口にした瞬間、〈今〉はすでにここにはない。では、いったい〈今〉はどこに行ったのか、どこに去ったのか。それは過去になったと言わざるをえない。では、過去とは何なのか、そして未来と何なのか……という具合に、厄介な懐疑が次から次へと思考する者を苦しめる。途方に暮れるまで考えることなどさらさらない。だからぼくたちは疲れた時点で思考を停止すればよい。だが、世に名を残した哲学者たちはこの臨界点を突き進んだ。偉いことは偉いのだが、思考プロフェッショナルならではの一種の「意地」だとぼくは思っている。


ちっぽけな知恵で考えた結果、今のところ(と書いて、すでに今でなくなったが)、未来に刻まれる時間を感覚的にわかることはできないと考えるようにした。未来を見据える時と過去を振り返る時を比べたら、やっぱり後者のほうが時間を時系列的に鮮明に感知できているからである。そして、どんな偉い哲学者が何と考えようと、ぼく自身は「時間は〈今〉という一瞬の連続系」と思っている。〈今〉という一瞬一瞬が積まれてきたのが現在に至るまでの過去。過去を振り返れば、その時々の〈今〉を生きてきた自分を俯瞰できるというわけだ。未来にはこうしたおびただしい〈今〉が順番に並んで待ち構えていると想像できなくもない。

もちろん、感知できている過去は脳の記憶の中にしかない。記憶の中で再生できるものだけが過去になりえている。記憶の中にある過去に、次から次へとフレッシュな〈今〉が送られていく。時間の尖端にあるのは現在進行形という〈今〉。それは、一度かぎりの〈今〉、生まれると同時に過去に蓄積される〈今〉である。ぼくたちは、過去から現在に至るまでの時間を時系列的に感知しながら生きていると言える。なお、記憶の中にある過去は体験されたものばかりではない。知識もそこに刻まれている。

もうこれ以上考えるとパニックになりそうなので、都合よくやめることにする。まあ、ここまでの思考の成果を何かに生かそうと思う。人生における〈今〉は一度しかなく、誕生と同時に過去になる――これはまるで「歴史における人生」の類比アナロジーではないのか。こう考えてみると、月並みだが時間の価値に目覚めることになる。いや、煎じ詰めれば〈今〉の意味である。つまらない〈今〉ばかりを迎えていると、記憶の中の過去がつまらない体験や情報でいっぱいになる、ということだ。 

過去は現在に選ばれる

塾生のT氏が、「過去と未来」についてブログに書いていた。この主張に同感したり異論を唱えたりする前に、まったく偶然なのだが、このテーマについてアメリカにいた先週と先々週、実はずっと考え続けていたのである。明日の夕刻の書評会で「哲学随想」の本を取り上げるのだが、これまた偶然なことに、その本にも「過去と未来、そして現実と仮想」というエッセイが収められている(この本は帰国途上の機中で読んだ)。

未来とは何かを考え始めるとアタマがすぐに降参してしまう。T氏のブログでは「未来は今の延長線上」になっているが、仮にそうだとしても、その延長線は一本とはかぎらない。未来は確定していないのだから(少なくともぼくはそういう考え方をする)、現在における選択によって決まってくるだろう。その選択のしかたというのは、それまでの生き方と異なる強引なものかもしれないし、過去から親しんできた、無難で「道なり的な」方法かもしれない。未来はよくわからない。だからこそ、人は今を生きていけるとも言える。

では、過去はどうだろうか。カリフォルニア滞在中に学生時代に打ち込んだ英語の独学の日々を再生していた。その思い出は、アメリカに関するおびただしい本やアメリカ人との会話を彷彿させた。もちろん何から何まで浮かんできたわけではない。過去として認識できる事柄はごくわずかな部分にすぎない。しかし、なぜあることに関しては過去の心象風景として思い浮かべ、それ以外のことを過去として扱わないのか。ぼくにとっての過去とは、実在した過去の総体なのではなく、現在のぼくが選んでいる部分的な過去なのである。


現在まで途切れずに継承してきた歴史や伝統が、過去に存在した歴史や伝統になっている。現在――その時々の時代――が選ばなかった歴史や伝統は、過去のリストから除外され知られざる存在になっている。別の例を見てみよう。自分の父母を十代前まで遡れば、2の十乗、すなわち1,024人の直系先祖が理論上存在したはずである。だが、ぼくたちは都合よく「一番出来のいい十代前の父や母」を祖先と見なす。ろくでなしがいたとしても、そっち方面の先祖は見て見ぬ振りしたり「いなかった」ことにする。自分を誰々の十代目だと身を明かす時、それは過去から千分の一を切り取ったものにすぎない。

過去の延長線上に現在があって、現在の延長線上に未来がある――たしかにそうなのだが、それはあくまでも時間概念上の解釈である。タイムマシンは無理かもしれないが、人は過去と現在と未来を同時に行き来して考えることはできる。生きてきた過去をすべて引きずって現在に至ったのかもしれないが、その現在から振り返るのは決してすべての過去ではない。現在が規定している「一部の過去」であり、場合によっては「都合のよい過去」かもしれない。

過去のうちのどの価値を認めて、今に取り込むか。どの過去を今の自分の拠り所にするのか――まさにこの選択こそが現在の生き方を反映するのに違いない。現在が過去を選ぶ。この考え方を敷衍していくと、未来が現在を選ぶとも言えるかもしれない。こんな明日にしたいと描くからこそ、今日の行動を選べているのではないか。いずれにしても、現在にあって選択の自由があることが幸せというものだろう。