正解幻想論

「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

これは魯迅が残したことばだ。相田みつをにも「歩くから道になる 歩かなければ草が生える」という表現がある。

伝えようとしたニュアンスは微妙に違うのかもしれないが、「人はすでにできている道を歩いたのではなかった。歩いたところに道ができた」という意味はほぼ同じ。

これら二つの言に頭を巡らせていると、問題と解答の関係によく似ていることがわかる。つまり、正解など最初からどこにもなく、問題を解こうと努めることによってのみ正解が生み出されるということだ。解こうとする試みが答えを導くのであって、解こうとしなければ何も見えず混沌とするばかりなのである。

ここで注意しておきたいのは、〈起点→→→終点〉において、終点という到達点だけが問題解決なのではないという点だ。ソリューションとは「水溶液中でモノが徐々に溶けていく過程」を意味する。「→→→」が解を求める苦心の過程なのである。終点で正解が得られるかどうかは誰にもわからない。しかし、自ら正解をひねり出そうと努めたことは必ず将来に生きてくる。


「正解が見つからない、だからわからない」と言うのと、「正解などないから、わからない」と言うのでは、同じわからないでも覚悟が違う。前者は不安に苛まれ焦りに到る。他方、後者は潔く観念している。諦めているのではなく、「正解などどこにもない」と割り切っている。つまり、正解は自ら創造するしかないという思いがある。

「この場面ではどんな手を打つべきでしょうか?」と相談されても、それに対する助言はぼくの考える正解である。その「道」をお手本にするのはいいかもしれないが、同じ道を歩いてもしかたがない。もっと言えば、この質問者がぼく以外の誰かに同じ質問をして、まったく別の助言を求められたらどうするのだろう。結局のところ、自分で決めるしかないではないか。人の意見に右往左往するくらいなら、自力で未体験ゾーンに飛び込んで考えるのがいい。

正解は「発見」するものではない。「発明」するものである。どこかの国のように偽装と捏造は困るが、自らの創意工夫によって正解を生み出すのである。

魯迅や相田みつをの言に反して、今の時代、道はどこにでもあるかのように見える。しかし、たとえそうであっても、自分が歩むべき道は自分でつくるしかない。正解を求めるのに急な現代人は、他人のつくった出来合いの高速道路をすぐに走りたがる。途中の過程を短縮化してひたすら目的地へと向かう。誰もが同じく陳腐な答えばかりを出しているのはこのせいである。

自分ノートの価値

老子は言う。

「道はくうの器のようなもので、中身がない。中身が詰まってくると、機能が規定されて融通が利かなくなってくる」

これを少々牽強付会気味に用いると、何も書いていないノートがもっとも有用ということになってしまう。文字がびっしりと書き込まれたノートよりも、何も書かれていない真っ白なノートのほうが有用とは……。この発想をフォローするのは容易ではない。

今年は老子を再読し私塾でも取り上げて、少し理解を深めたところである。書くことやノートについて老子が直截的に語ったわけではない。しかし、空っぽ――あるいは空間――を哲学したパイオニアである老子が、「空の満に対する優位」を説いているのは間違いない。たしかに、空の可能性は満の可能性よりも大きい。タクシーが空車なら乗れるが、満車だと乗れない。空席があれば劇場に入れるが、満席なら入れない。自分視点に立てば、いずれも前者が有用ということになる。行列の並ぶ店は有用ではない!

老子には「柔弱の堅強に対する優位」という考え方もあって、強さをマイナスとして見る。ところが、別の章の一節では「(……)、柔を守るを強とう」とも言っている。おや、柔弱さを守るのが強さなら、結局は堅強のほうが強いのではないか。たしかに、この一文においてのみ、老子は強さをポジティブにとらえている。これはさておき、着目したいのは上記の「(……)、」の箇所だ。「小を見るを明とい、」とあって、「小さな物事をよく見定めるのが明知」という意味になる。小事をよく観察するのが知恵ならば、ノートの空白に小事を埋めるのもまんざら悪くはないような気がしてくる。


究極的に「道」なるものにかえる時、すべては無為で無用で空っぽになるのだろう。しかし、年齢不相応に未だ途上人である身にあっては、道は遠く険しい。ゆえに、日々ノートに小事や小知を綴る。文字がびっしりと埋まった一冊のノートを紛失したら、大いに困り大いに嘆くだろう。翻って、まだ一行も書いていないノートを失くして困ることはない。老子先生に逆らうつもりはないが、ぼくにとっては未使用のノートよりも手垢のついたノートのほうが有用なのは間違いない。

ここ数年使っているノートは主に文庫本型ノートで、定価は税込み147円と安価。一冊288ページのノートだ。しかし、紙の片面しか使わないから、144ページに記録していることになる。11テーマ主義ゆえ一冊だけで144の見出しがある。だいたい一日あたり2ページか3ページ書く。つまり、一冊二ヵ月のペース。このノートを新たに使い始めて一週間の時点では、ノートの大半は白紙だから、ぼくは白紙のノートを持ち運びしているようなものである。一ヵ月経ってもまだ半分が白紙だ。白紙は、書き込まれて未来には有用になるだろうが、現時点では無用である。

今のノートは812日から使い始め、あと一週間ほどで書き終わる。使い勝手のよい参照状態になってくれている。ぼくが紙の片面しか使わないのは、時折りノートを読み返しながら空けておいた対抗ページにひらめきや追加情報を書き込むため。つまり、ノートを使い込んでいくと同時に、ぼくは同数の空きページも用意している。あ、そうだ! これらの空きページは、後日有用への道に開かれているではないか! これがまさに空っぽの有用性か? ふ~む、老子は深い。