知のバリアフリー化

知のバリアフリー賛歌のつもりで書こうとしているのではない。むしろ「バリアなければすべてよし」の風潮にうんざりしている。物理的にも精神的にも障碍のない状態を表わすことばが、ご存知の「バリアフリー」。もちろんそのことは一般的にはいいことなのだろう。たいていの動物にとって自然環境は、手を加えないままでバリアフリーである。ぼくたちの目にはバリアだらけなのだが、彼らは見事に環境に適応して苦もなく駆けたり飛んだりしているように見える。羨ましいかぎりだ。

人間はと言えば、レアのままの自然環境では生きづらい。それゆえに、登山や航海などがバリアを克服する冒険として成り立っている。文明の所産である様々な人工物は「動物弱者」としての人類が生活しやすくなるようにと編み出したものである。そもそも野獣から身を守り風雪に耐えるべくしつらえた住居は、自然のバリアを極力排除したバリアフリー指向の産物だったに違いない。

長い年月をかけて住みやすくしてきたが、成熟の時代になった今でも家にはまだ段差があり、壁や柱の一部が生活上の障碍として残っている。それらをすべて取っ払えばバリアフリーでアトホームな暮らしができるという目論見がある。床という床をすべてフラットにし、ありとあらゆる突起物をなくせば、生活しやすくなる? そうかもしれない。但し、一歩外へ出れば、どんなにバリアフリー化を進めている街にも大小様々なバリアがそこかしこに存在し、想定外の新種のバリアも蜘蛛の巣のように潜んでいる。


現実問題として、何から何まで平らになった環境で冒険心や挑戦意欲を維持できるのだろうか。いまぼくは、このバリアフリーの話を仕事に当てはめようとしている。仕事にはさまざまな課題がある。もちろん難問奇問もある。それらを解決していくことはその職業に就くプロフェッショナルとしては当然の任務である。にもかかわらず、そんな高度な課題に挑むこともなく、職場はマニュアルで対処できる「まずまず問題」ばかりに躍起になっているように見える。

テーマが容易に解決可能なレベルにならされた職場は、まさに知のバリアフリー状態と呼ぶにふさわしい。考えること、問題を解決することにつきまとう辛苦を遠ざけて、アマチュアがうんざりする程度の知で日々の業務をこなしているのだ。そのような知はハプニングに対して脆弱で、臨機応変力に乏しく、もはや難問を前にしてギブアップしているに等しい。

ここまで書いてきて、ふとあのテレビコマーシャルを思い出す。「三菱東京UFJ銀行カードローン、三菱東京UFJ銀行カードローン」と二度そらんじるだけで、上司の阿部寛が「グッドジョブ!」と褒めてくれるのである。これがバリアフリーの知の行く末である。これなら「この竹垣に竹立て掛けたのは、竹立て掛けたかったから、竹立て掛けたのです」を二度繰り返せれば、「ミラクル!」と叫んでもらえるのだろう。バリアフリーな知に安住したアタマでは難問を解くことはできないのである。