引用 vs うろ覚え

引用.jpg企画業のかたわら、三十代後半から人前で話をさせていただいてきた。「浅学菲才の身」という、心にもないへりくだりはしないが、我流の雑学しかやってこなかったから、知識の出所についてはきわめてアバウトである。しかし、そうだったからこそ、思うところを語れてきたし、二千回を超える講演や研修の機会にも恵まれて今日に到ることができた。学者の方々には申し訳ないけれど、つくづく学者にならなくてよかったと思っている。

学者にあってぼくにないものは専門性である。深掘りが苦手だ。その欠点を補うために異種のジャンルを繋げることに意を注いできた。これには、新しい問題の新しい解決を目指す企画という仕事を志してきた影響が少なからずあっただろう。何よりも、奔放にいろいろなテーマに挑めてきたのは、個々の精度にとらわれず、学んだことをうろ覚えながらもアウトプットしてきたからだ。もちろん、そんなぼくでも読んだ本を極力正確にノートに引用してきたし、観察したことや見聞きした事実などは固有名詞を踏まえてメモしてきた。それでもなお、うろ覚えの知識もおびただしい。だが、確かな知からうろ覚えの知を引き算していたら、生涯書いたり話したりなどできないと腹をくくった。
学者は、参考文献の出所や出典を明らかにして、該当箇所を正しく引用することを求められる。引用間違いをしたり書き写し間違いをしたりすると困ったことになる。引用符内の文章を故意に歪めてはならず、また、故意でなくても誤って間違うとみっともないことになってしまう。どの文献だったか忘れてしまったときに「たしか」では済まされないのだ。これにひきかえ、ぼくなどは立場が気楽である。デカルトにいちゃもんをつけた哲学者ヴィーコよろしく、身勝手に「真らしきもの」をおおよそ真として語ることができる。今こうしているように、書くこともできる。

納得できない人もいるだろうが、さらに批判を覚悟の上で書こう。
「ぼくの経験」を語ることの信憑性と、「たしかこんな本に次のようなことが書いてあった」という信憑性にどれほどの違いがあるのか。学術的には精度が低くても、聞き手に伝えたいこと、教訓として知っておいてほしいことがある。まったくでたらめなフィクションではないが、経験であったりうろ覚えであったりする。それをぼくはネタにしてきた。精度を重んじるあまり、口を閉ざすにはもったいない話はいくらでもあるのだ。間違いかもしれない引用、あるいは読み間違いや聞き間違い、場合によっては勘違いかもしれない。しかし、「それらしきこと」や「見聞きして覚えていること」を話さないのは機会損失である。
 
何かの本で読んだことは間違いない。ある程度話を覚えもしている。その本は探せば書棚のどこかにあるはずだ。学者はその本を探し当てて正確に引用せねばならない。しかし、ぼくはおおよその記憶を頼りにいちはやく話し始める。
 
「理髪店に行くと、何かが変わる」という一文を読んだことがある。たしか、「まずヘアスタイルが変わり気分が変わる」ようなことが書いてあった。そして、「もしかすると、魂が変わり、ひょっとすると、髪型だけではなく顔も変わるかもしれない」というようなことが続いた。しかし、現実に変わるのは髪型と気分だけで、それ以外は変わらない。変わると思うのは妄想である……と書いてあったような気がする。理髪店は妄想の時間を提供してくれる。だから、最後にシャンプーで妄想を洗い流す……これが一文の結論だった。理髪店で発想を変えようというような話だったのである。
 
ぼくはどの本にそんな話が書いてあったのか思い出せないまま、敢えて勇み足をしたことがある。引用文はまったく正しくないだろうが、紹介しようとしたプロットがでたらめではないという確信があった。ところで、先日本棚を整理し、以前に読んだ本をペラペラとめくっていたら、薄っぺらな文庫本に付箋紙が貼ってあった。ロジェ=ポル・ドロワ著『暮らしの哲学――気楽にできる101の方法』がそれ。なんと付箋紙を貼ったページに上記の話を見つけたのである。ぴったり当たらずとも遠からず。ただ、原文は理髪店ではなく美容院だった。先に洗髪することが多い美容院ではこの話は成り立たないと考えて、ぼくは無意識のうちに理髪店に話をアレンジしていたという次第である。

エピソード学入門

エピソードとは逸話や挿話のこと。時の人物、物事、現象に関しての小さな話題であり、一見すると本筋ではないのだが、黙って自分だけの占有で終らせたくない小話だ。薀蓄するには恰好のネタにもなってくれる。また、どうでもよさそうな内容だけれども、案外記憶に定着してくれるのは、肝心の本題ではなく、こちらのほうだったりする。

雑学? いや、ちょっと違う。昨今の雑学はジャンル別になったり体系化されてしまったりしてつまらない。話がきちんと分類された雑学の本などがあって、襟を正して学ばねばならない雰囲気まで漂ってくる。雑学クイズはあるが、エピソードはあまりにも固有体験的なので、クイズの対象にならない。〈エピソード学〉という造語が気に入っていて、数年前から講義で使ったり、何度か『最強のエピソード学入門』というセミナーも開催したことがある。きちんとした定義をしたわけでもないので、用語だけが先走ったのは否めない。

「十人十色」と形容されるように、人はみな違い、みな固有である。同時に、「彼も人なら我も人なり」という教えもある。諺や格言を集めてみれば、森羅万象、相容れない解釈だらけだ。このような相反する価値観にエピソード経由で辿り着く。おもしろい、愉快だ、なるほど、これは使えそう、馬鹿げている、非常識……エピソードに対して抱く感情は、ぼくたちの思想や心理の鏡でもある。日常茶飯事はアイデアと創造につながるエピソードに満ちている。ぼくたちはそのことにあまり気づかないで、フィクションや夢物語ばかりをやっきになって追いかける。エピソードには、まるで虚構のような真実も隠れている。


情報を知ってハイおしまいなら、世間一般の雑学と変わらない。エピソードの良さは、考える材料になり、自作としてアレンジでき、そしてジョークにも通じるような、誰かに語りたくなる感覚を味わうことにある。

ある時、駅構内で「インドネシアからお越しのクーマラスワーミーさま、クーマラスワーミーさま、ご友人がお待ちですので駅長室までお越しください」というアナウンスが聞こえてきた。ぼくが聞き取れたのだから、インドネシア語ではなく日本語であった。日本語でクーマラスワーミーさんに呼び掛けた? そうなのである。呼び出されたその人が日本語を解する人だったのかもしれない。しかし、それはそれ。日本語で外国人に丁重にアナウンスすること自体に可笑しさがある。

同じく駅のアナウンスで「ただいま2番ホームに到着の列車はどこにもまいりません」というのがあった。ホームに立ってじっと見ていた、これまた外国人が、動き出した列車を見てこう言った。「ドコニモイカナイトイッタノニ、ドコカヘイッタジャナイカ!?」 たしかに。列車は車庫へと向かったのである。

次はアメリカ人のエピソード。

「鶏ガラを使ったスープを私は飲まない。タマゴは食べるけど、それ以外の肉食系たんぱく質はとらない」という女性がいた。ベジタリアンであった。「なぜタマゴはいいの?」と聞けば、「タマゴはどんどん生まれるから」と答えた(何? 鶏だってどんどん育つではないか)。野菜ばかり食べる彼女は慢性のアトピーに悩まされていた。しかも、肉食に何の未練もないと言い張りながら、肉を模した豆腐ステーキを食べたがるのである。枝豆にしておけばいいのに、こんがりと焼けたステーキを「偽食」したいのである。

偶然外国人がらみのエピソードばかりになったが、必ずしも偶然とは言えない面もある。ことばや文化や考え方の異質性や落差がエピソードの温床になることが多いからである。もちろん、日本人・日本全体においても多様性が進み異質的社会の様相が色濃くなってきたから、一見ふつうの人間どうしの交わりからもエピソードがどんどん生まれてくる。敷居学、室内観相学、路上観察学などはすでにそれなりの地位を築いている。人間が繰り広げる行動にまつわるエピソード学もまんざら捨てたものではないと思うが、どうだろうか。