寡黙化する人々

「人は商品を買うのではなく人を買う」と豪語したジョー・ジラードは別格としても、カリスマと称されるセールスパーソンなら誰しも自分自身を売り込んでいるはずである。売る人そのものが売り物ではないにもかかわらず、商品価値のほぼすべてを人が決定しているというこの考え方は、実は決して珍しいことではない。むしろ、誰が携わっても同じという「セールスの匿名性」のほうが少数派なのである。

商品の購入にあたって顧客は売る人を買っている。これは、彼らが信頼を、説明を、笑顔を、経験などを求めているからである。極端な話、顧客が買っている商品はコミュニケーションに満ち溢れた環境で売られているのである。したがって、ジラードをもじって、「どんな商品を扱うにせよ、私が売っているのは、実はコミュニケーションなのだ」というセールスパーソンがいても決して不思議ではない。

「コミュニケーション上手」イコール「口達者な売り手」ではない。コミュニケーションとは相手を納得へと導くマメな情報共有をも意味する。だから、たとえばエドワード・T・ホールの「非言語的コミュニケーション」であってもかまわない。手まねや身振りも、文化的・文脈的パターンにのっとっていれば、十分に機能すると思われる。とはいえ、ビジネスシーンにおける非言語的コミュニケーションの影響力は失態時に強く出る。立ち居振る舞いが反文化的に働いたり無礼に捉えられたりというケースだ。ビジネスを牽引する主導的役割を果たすのが言語的コミュニケーションであるのは言うまでもない。


ホールの唱えた“silent language”は「沈黙のことば」と訳される。言うまでもなく、沈黙のことばは有言のことばとセットである。言語的コミュニケーションに怠慢な者が、いくら張り切ってジェスチャーをしても空しいばかりだ。それなのに、公の場での人々の静けさはいったいどういうわけだろう。しかも、寡黙な彼らは、沈黙のことばによる表現も不器用なのである。彼らの手まね身振りはほとんどの場合、携帯やパソコンの操作に限られているかのようだ。

稀に発話しても単語がパラパラと撒かれるだけで、ことばが文章の体を成していない。一語か二語話しては止まり、「あの~、ええっと」などのノイズが入り、そしてまた一語か二語が続く。単語どうしが相互に結びつかず構文が形成されない。とりわけ、動詞なきメッセージには面喰ってしまう。動詞がなければ、結局何を意図しているのか判然としないのである。これではまるで、カラスの「カァーカァー」やネコの「ニャーニャー」とほとんど同じではないか。仕事の現場での饒舌なやりとりを懐かしく思ってしまう今日この頃だ。

但し、現代人は私事の、つまらぬことに関しては大いに雄弁なのである。この雄弁がパブリックスピーキングに生かされない。現代人にとっての母語は、発話されない「沈黙のことば」と化し、話しことば自体が第一外国語になったかのよう。まさに、口を開いて日本語を話すこと自体が、十分に精通していない外国語を話すことのように重くなってしまったのである。これは母語の退行現象にほかならない。