顛末を詳らかにする

シェークスピアに『終わりよければすべてよし』という戯曲がある。“All’s Well That Ends Well.”という原題だ。いろいろな苦難や試行錯誤もあったけれども、結果がよければ救われる。その通りだろう。もう一つ、英語には“Well begun is half done.”というよく知られた諺もあって、「始めよければ半ば成功」という意味だ。これに相当する日本語は見当たらない。ふだんぼくたちが耳にするのは「始めよければすべてよし」だ。英語では謙虚に「半分よし」なのに、日本語では厚かましくも「すべてよし」。きわめて楽観的である。

そうそう、他に「始めよければ終りよし」もあった。始めと終りが接近しているのなら、そうかもしれない。愛想のいい運転手のタクシーに乗り気分よく出発したら、ワンメーターの近場の目的地までなら降りる時も気分はいいはずだ。始めと終りの時間が5分くらいなら、おそらく始めよければ終りよしに違いない。たとえば気持のいい朝を迎えたら、たぶん朝食はおいしくいただけるだろうが、だからと言って、いい朝を過ごしたその日の終りがハッピーエンドになるという保障はない。

会合の冒頭、挨拶のスピーチのつかみで成功した司会者が3分後に情けない終わり方をするのを何度も目撃してきたし、周囲が「おぉ」と驚嘆する出だしでカラオケを歌い始めた彼が次第に音程を狂わせ、耳をつんざくようにエンディングを迎えるのも珍しくない。一つの仕事も、大きな事業も、はたまた人生そのものも、そんなに都合よく始めよければ終りよしのように流れてくれるものではない。紆余曲折が常であり、始まりと終りに必然的なつながりを見出すのはむずかしいのである。


若手の経営者が画期的な発想でビジネスを成功させているという話をよく聞く。ちょうど今朝も、身支度しながらテレビの音声からそんな話が耳に入ってきた。正確に再現はできないが、どうやら廃業した店にほとんど手を加えずそのまま焼肉店として成功させているという話らしかった。壁や天井、店のインテリアなどに誰も関心はなく、うまい焼肉さえあれば客は文句は言わない。たしかに一理あるが、割烹やフランス料理になれば話は別だろう。食事には文化も人間もからむ。食べ放題が成り立つ焼肉の場合はともかく、一般論として起業家予備軍がこのオーナーの説を真に受けるのは危険である。

だいたいにおいて、成功美談は若き日の苦難と、そこから抜け出てビジネスを軌道に乗せるまでを取り上げる。とりわけマスコミはそのようにストーリーを組み立てる。芸人に関しては、落ちぶれてから「一発屋」なる概念でデビュー当時へと遡る。しかし考えてみれば、ほとんどの成功者はそもそも一発屋なのではないか。すべての業界には何がしかの登竜門があって、そこをクリアすること自体を一発屋的と形容することができる。小説家、芸術家、企業人、みんなそうである。千や万に一つの成功者が始まりでもてはやされる。にもかかわらず、よほどの著名人か有力企業でないかぎり、ぼくたちは彼らや組織の結末を知らされることはない。

点滴岩をも穿うがつような、地味だが着実な成功が珍しくなった。成功は一発的となり、自力だけではなく想定しえない外部環境も少なからず作用している。そのような、別名「強運」とも称される要因がいつまでも安定して続くことはありえないから、たとえば起業時点で成功した人間が終生うまくいく確率はきわめて小さい。二十代、三十代で華々しくビジネスを成功させた時代の寵児を、いかにも完成形の美談に仕立てて評価するのが性急すぎるのではないかと考える。

シェークスピアの戯曲からは、対照的に「終り悪ければすべて悪し」も咀嚼せねばならない。誰も長い眼で若き成功者を序章から最終章まで追跡し、顛末のことごとくをつまびらかにしていないではないか。始めよくて終りが惨憺たる、経営的に短命な人物を多く知っているぼくとしては、出発点のサクセスストーリーに憧れて若い人々が錯覚を起こしてしまうのは見るに忍びない。世の中は「始め悪ければ終り悪し」ばかりでもないし、「始めよければ終りよし」もめったにないことを肝に銘じるべきだろう。現在進行形の事象にいたずらに一喜一憂するのではなく、顛末を以て事例に学ぶ。そして、顛末は同時代からは学びがたく、歴史をひも解かねばならないはずである。

リーダーのことばが色褪せる

人物と言論を切り離して考えるのはむずかしい。だが、できればそうするのが理想である。どんなにダメのレッテルを貼られた人間でも、その意見に傾聴に値するものがあれば認め、あるいは共感すればいい。さもなければ、いい人だからいいことを言っている、悪い人だから悪いことを言っているという、幼稚で短絡的な結論に至ってしまう。このあたりの話は、3ヵ月ほど前に「自分を棚に上げる風潮」と題して一度取り上げた。

このように考えないと、輝かしい金メダリストのスポーツ語録が、万が一彼もしくは彼女が後年法を犯したとたんに失墜してしまうことになる。もちろんスポーツだけにとどまる話ではない。一度コテンパンにやられた歴史上の偉人たちの金言・格言は輝きを失い、いやそれどころか闇に葬られてしまうことになる。つまり、古典的な価値など、すべて死滅することになるだろう。時代を超え人格や人間性を超えて、彼らの言わんとしたことを人物の盛衰や顛末とは無関係に眺めることは重要である。


とは言うものの、そんなに冷静で物分かりのいい見方が誰にでもできるわけではない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎んでしまうのが人のさがというものだ。嫌いな人間や憤りを覚える人間が、どんなにためになる話をしようが、天使のような心を見せようが、生理が受けつけぬ。これが偽らざる思いかもしれない。

かなり前の話だが、”フォーチュン誌”1995320日号に次のようなインタビュー記事の一節がある。

“There’s no magic. What will make all the difference in business will be how well you train your work force, how well you motivate―and how well you empower.”
(手品なんてない。ビジネスで差がつくのは、いかにうまく人材を訓練し、いかに動機付け、そしていかに権限を与えるかなのだ。)

企業論である。なかなかの慧眼ではないか。いったい誰のことば? 何を隠そう、経営破綻問題でいま脚光を浴びているクライスラー社の当時のCEO、イートン氏の自信に溢れた信念である。「おたくの会社、ほんとにそうやって人材を育ててきたの?」と、嫌味の一つも言いたくならないか?

まだある。当時その巨大企業の会長の任にあったリード氏は、1999年に自社の変革シナリオとして下記の5項目を高らかに謳った。

1.コスト削減
2.リストラ(組織集中と分社化)
3.強いメニュー
4.情報公開
5.顧客

なるほど。常識的だが、立派な企業はそういうところに落ち着くのかと納得する。で、どこの会社の話?  これまた経営危機に直面しているシティバンクだ。

イートン氏やリード氏の仕事ぶりと現在の両企業の経営状況との因果関係を判ずる手立てはない。人物と言論の関係は、企業と言論の関係にも通じる。一つの失態は清く正しく美しい理念やスローガンを一夜にして色褪せたものにする。


仮に、経営破綻で喘ぐ現在のCEOなりチェアマンが同様の内容を経済誌のインタビューに答えたとしたら、何をほざいているんだ! と凄まじい批判を浴びるに違いない。リーダーたちの言葉は成否と大いに関わっている。いや、実は関わりなどないかもしれないが、耳にするぼくたちが成否という視点からの発想でしか価値を見極められないのだ。

言葉が色褪せたり輝いたりするのは、時代のせいであるものの、おそらく大半は言動不一致に平然と澄まし顔している輩のせいである。と同時に、ぼくたちも一喜一憂の癖と想像力の限界からくる先入観を反省すべきだろう。