私家版食性論(中)―「広食」か「狭食」か

ジャガー.jpgのサムネール画像「腹を空かしているときに、この中に入るとやられてしまいます」。ある動物園の飼育員が冗談抜きの表情で語った。この中とは檻であり、腹を空かしているのはジャガーである。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与える。赤ん坊のときから何年も飼育してきたのに、腹ペコ状態のジャガーの檻には入れない。念のために書くが、ジャガーとは猛獣のジャガーであって、女子プロレスのジャガー横田ではない。

エサをもらっている姿を見るかぎり、ジャガーは飼育員になついているように見える。だが、「なついているようでも、いつでも私を狙っています」と飼育員。ジャガーにとって動く哺乳動物はすべて標的。世話をしてくれる飼育員さえもジャガーの食性内の獲物にすぎない。ジャガーにとってみれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない健気けなげさや親しみや信頼性などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめて首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、ぼくたちは残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまうが、ジャガーは食材を調達して食事をしているにすぎない。自然界に棲息するジャガーと違って、動物園の片割れは調達などしないが、それでも自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員はいつでも狙われているのである。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の《食う・食われるの関係》においては、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこには損得観念などはない。自然の摂理はめったなことではバランスを崩すことはないのである。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生のまま草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。「広食」の最右翼が人間であり、日本人はそのリーダー的存在だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はパスタ、夜はサムギョプサル、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば、明日の昼はタイ風カレー、夜は酢豚に餃子……まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておく。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などとしつけるはずもない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

 〈続く〉

私家版食性論(上)―何を食べるのか

食材を浪費し調理されたものを廃棄するなどもってのほか。注文したものを食べ残し、注文されもしないものを作り置きすることにはやむをえない事情もあるだろう。だが、できれば避けるべき、恥ずべき行為だと自覚しておきたい。そもそも賛否を問うようなテーマではない。

さて、食べるということに関して、ぼくは両極の間でつねに揺れ動いてきた。一方で、つべこべ言わずに何でも食べるべしと考え、他方、旬のものだけを食べていればよしとも思っている。このような二律背反に直面するたびに〈食性〉ということばがアタマをよぎる。食性とは、人間および動物全般に見られる食べ物の性向のことである。食材を広げるのか狭めるのか……どちらを選ぶかによって何を食べるのかが決まるが、文明以前の人類にとっては選択の余地などあるはずもなかった。生き延びるために環境適応を最優先した。環境要件のうち食風土が第一決定因であり、まさに「foodフードこそ風土」だったのである。

ところが、文明の萌芽とともに地域どうしの交流が始まると、目新しい食材で胃袋を満たすようになり、かつて固有の風土によって制限されていた食性が広がるようになった。たとえばローマ時代の富裕層の食卓は、わざわざ食す必要もない珍奇なゲテモノで彩られた。現代に生きるぼくたちも、固有種以外の食材や料理を日々堪能し、本来の食性を大きく変えている。さて今日は何を食べようかと、のべつまくなしに箸やフォークが迷っている。


炭火焼きウルテ.jpg写真は、炭火で「ウルテ」を焼いているシーンだ。焼肉店でこれを注文する人はぼくの回りに多くはいないが、好きな人はこの一品を欠かさない。ウルテとは牛の喉の軟骨。鶏の軟骨よりも硬いから、あらかじめ細かく包丁を入れてある。切れ目はタテ・ヨコに入っており、片面に焦げ目が付いた頃にひっくり返すと網に軟骨の粒がくっつく。漬けていたタレが切れ目に浸み込み香ばしく、独特の歯ごたえがある。もちろん、こんなものを食べなくても人は生きていける。わざわざ好んで食べることもない。ロースばかり食べる人もいれば、ホルモンにこだわる人もいる。牛の部位に限っても、人には人の食性があるのだ。

「動物の世界に目を移してみると、モグラは昆虫を食べ、ウシやヒツジは草を食べ、オオカミやライオンは肉を食べる。食べるものの種類は極めて少ないわけだが、これらの動物を偏食だという人はいない。どの動物も、”ある一定の食物を食べる性質”があるのだ。それを”食性”という。それぞれの動物によって食性が異なるように、人間もまたさまざまだ」(『粗食のすすめ』)。

著者の幕内秀夫はこう言って、それぞれの民族が偏食していると結論する。もっとも、偏食は偏食でも風土という自然に則したもので、単なる好き嫌いなどではない。

おおむね玄米と味噌と少しの野菜と近海の魚で生命を維持してきた日本人は、文明開化以降、望めば世界中の食材を手に入れられるようになった。何を食べるかという選択肢は間違いなく増えた。けれども、選択肢に比例して何でも食べるぼくのような広食性人間もいれば、かたくなに食性を限定的に維持している狭食性人間もいる。ぼくが広食性なのは単純な理由で、食べ物にあまりエゴイズムを持ち込みたくないということに尽きる。

一つだけ確実に言えることがある。旬を中心とした摂理ある食性は、好き嫌いによって形成された食性とはまったく別物だということだ。 

〈続く〉

食性について

一ヵ月前になるだろうか、ある動物園の飼育員がテレビで冗談抜きの表情で語っていた。「(腹を空かしているときに)この中に入るとやられてしまいます」。この中とはジャガーの檻だ。ジャガーとは猛獣のジャガーである(ジャガー横田ではない)。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与えている。赤ん坊の時から何年も飼育しているのに、中には入れない。

エサをもらっている姿を見ると、なついているように見える。だが、「ジャガーは懐いているようでも、いつでも(私を)狙っているんです」と飼育員は言う。ジャガーにとって動く標的はすべて獲物。お世話になっている飼育員もジャガーの食性内の食物にすぎない。ジャガーからすれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない「健気けなげさ」や「親しみ」や「信頼性」などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめ首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまう。実は、ジャガーは食材を調達して食事をしているのである(なお、動物園のジャガーは調達しなくてもよいのだが、自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員は狙われる)。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の〈食う・食われるの関係〉において、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうはありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこに損得などはなく、自然の摂理ではめったなことではバランスが崩れることはない。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生の草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。これに対して、「広食」しているのが人間。日本人はその最右翼だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はラーメン、夜は焼肉、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば……と、まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておこう。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などと躾けている話を聞いたことがない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

「お昼」に思うこと

「お昼に行ってきます」と言う。それに対して「お昼になど行かなくても、毎日お昼のほうからやって来るじゃないか」と返されたら……。返した相手は無粋かバカか、あるいはジョーク好きのいずれかなのだろうが、下手をすると、あなたも無愛想かバカらしいという顔をするか、あるいは(ジョークがわからずに)ポカンとした反応を示すかもしれない。この種の返しは、受け止めるのも受け流すのもむずかしいセリフなのである。

仕事の合間に「お昼に行く」と告げるときの「お昼」。それは十中八九お昼ごはんであり、外でランチを食べてくるという意味であって、朝昼晩なる分節のうちの午後の早い時間帯のことではない。不思議なことに、朝ごはんを「お朝」などとは言わないことになっている。喫茶店のモーニングの名称にあってもよさそうだが、少なくとも半世紀以上生きてきて一度も耳にしたことがない。同様に、夕食や晩餐を「お夕」と言わない。御番菜おばんざいはあっても「お晩」はない。「今夜はみんなでお晩に行くか」もまんざら悪くないが、他意や含みも多すぎる。

昼間に自宅にいない、そして弁当を持っていない、さらに空腹であるという三つの条件が揃えば、弁当を買ってくるか店に食べに行くかのどちらかが必然。そして、どちらにしても、選択の岐路に立つことになる。ぼくのオフィス近くの「弁当デフレ戦争」は日を追って凄まじさを増している。弁当を買ってきてオフィスで食べることはめったにないが、お昼に歩いてみると、店先はもちろん、道路側にもにわかテントとワゴンが並び、なんと280円から500円の価格のメニューで通行人を奪い合う。


オフィス近くに半年前にオープンした台湾料理の店。昼はにぎわい、夜もまずまず。お昼のメニューは十数種類あって、どれもボリュームたっぷりだ。このボリュームたっぷりは大いに歓迎すべきだが、減量作戦中のぼくには悩ましい。ゆえに、単品にするか、定食にしてご飯少なめにする。この店に酢豚定食はないが、昼遅めに行って客が退いていたら、特注できる。毎日のランチのことだ、偏らないようにしようと思えば、具材が比較的豊富な中華料理が週に二回くらいになってしまう。

それと言うのも、和食店が頼りなくなったからである。正確に言えば、和食店であろうと何店であろうと、メニューがめっきり洋風に画一化してしまったのだ。寿司と魚料理に特化していない店では、肉が魚と野菜に代わって主役に躍り出ている。定食で目立つのはトンカツ、豚の生姜焼き、唐揚、ミックスフライ。これに最近では、熟年泣かせのロコモコ丼にタコライスである。「何だ、これは!?」と思いつつ、無下にせずにそれぞれ一度だけ試してみた。結論だけ言えば、ロコモコよりは卵かけご飯、タコライスよりはちらし寿司のほうがいい。

ランチにアボガド丼を出す店があるが、いくらダイエット向きヘルシー食と言われようが、遠慮する。念のために書くが、ぼくは何でも食べる。好物はあるが、これはダメというのはない。しかし、まずまずの選択肢があれば、アボガド丼を指名しない。まぐろアボガド丼というのも見かけたが、アボガド抜きのほうがよろしい。ぜひお昼にはちゃんとした和定食も用意してほしいものだ。もちろん、これはぼくの個人的な思いである。実は、お昼にちゃんとした和食を出していた店はことごとく閉店に追い込まれて、代替わりしてしまったのだ。新しくオープンした店はおおむねグリル系メニューか創作系折衷メニューを指向する。少々侘しく寂しいが、現代日本人の食性を反映しているのだからやむをえない。

「食域」というアイデンティティ

仕事にもスポーツにもそれぞれに「それらしい本分」が備わっていてほしいと願う。同様に、民族や風土が育んできた食性がやみくもに損なわれるのを目撃するのは忍びない。自然の摂理でそうなるのならまだしも、珍しいレシピや度を過ぎた折衷を求めるあまり、己の食性を乱すことはないだろう。

食性ということばは生存のための本能的行動に密着しているようだ。そこで、生命とは無縁の欲望のほうに少し近づいて「食域」という造語を用いることにしたい。ざくっと食やレシピのレパートリーと想像してもらえればいい。言うまでもなく、食は饗する側と饗される側の協働によって成り立っている。料理するだけで食の儀は終わらず、料理なくして饗宴が始まることはない。長い食文化の歴史を通じて、人類は実にさまざまな食材を組み合わせて料理を完成させ口にしてきた。いつの時代も食域は前時代よりも広がる。この国の食域の広さは間違いなく世界一を誇っている。

「この料理なら許せるが、あれはダメ」というのが人それぞれの食域になる。各地で鰻を食べてきた鰻の薀蓄家である知人でさえ、うな重に振りかけるのは山椒のはずで、決して黒胡椒をかけることはありえない。タレがデミグラスソースのうな丼を食したこともないはずだ。つまり、世間の共通認識として、黒胡椒やデミグラスソースを使ったら、それはもはやうな重やうな丼ではないという「食域のアイデンティティ」があるということである。


その知人にはもう一つの顔があって、ソフトクリーム大好きおじさんなのである。どこに行っても、抜け目なくソフトクリームを見つけては楽しむらしい。彼のブログではこれまでに醍醐桜、伊予柑、山ぶどう、バラ、メロン、白桃、ほうじ茶、柿、マスカット、いちじくなどのソフトクリームが紹介されてきた。驚くばかりである。ぼくなどは本場イタリアで食べるジェラートもバニラか特濃ミルクのいずれかだ。どんなにメニューが揃っていても、ぼくの食域にはバニラかミルク以外のものは入ってこない。こう言い切るのは、好奇心旺盛にしていろんな種類を食べてきたからこそである。その結果、ソフトクリームにおけるいかなる新種もバニラやミルクを越えないことを知った。

知人の最近のブログには次のように書かれている。「メニューを見ると『昔ながらのソフトクリーム』とある。ソフトクリーム好きの私としては即追加注文。しっかりした柔かさで、味も濃厚。去年はいろいろ変わりソフトを食べてきたが、やっぱりソフトクリームの原点はこの味」。ほら、やっぱり。ソフトクリームもジェラートも原点はバニラ味かミルク味なのだ。

フィレステーキや伊勢海老を丸ごと一匹乗せたお好み焼きはお好み焼きではない。別々に食べるほうが旨いのに決まっているからであり、どんなにひいき目に見ても折衷効果に乏しい。フォアグラやトリュフの寿司も、寿司のアイデンティティに反して食域を欲張ってしまっている。ぼくの中ではタラコスパゲッティはぎりぎりオーケーだ。見た目はともかく、味としてはアンチョビに似通っているからである。但し、箸でスパゲティを食べるのは食域侵犯であり、パスタのアイデンティティが崩れてしまっている。

かつてフレンチもイタリアンも箸でいいではないかと思った時期もある。ところが、小鍋にキノコといっしょに煮込んだ牛のほほ肉をパリで食べ、濃厚なミートソースでからめた手打ちの平麺をボローニャで食べたとき、フォークやスプーンなどの西洋食器が旬の料理と不可分の関係にあることを思い知った。以来、箸を置いてある物分かりのいいフレンチやイタリアンの店を敬遠する。そのような店の料理は洋風仕立ての和風創作料理――または和風仕立ての洋風創作料理――と呼ぶべきである。いや、たいてい創作料理ではなく「盗作料理」になっている。レシピの多様化や新作への挑戦は大いに結構だが、堂々としたアイデンティティの強い原点料理を忘れないでほしいものだ。 

数字信奉の外に立つ

数字至上主義への疑問で終わった昨日のブログを続けてみたい。数字が無個性の元凶の一つであるとぼくは考えている。

さて、人の目でアリやチョウの個体差を判別するのはむずかしい。昨日見たアリもチョウも今日見るアリもチョウも寸分違わぬ行動をしている。そう見えるし、実際そうなのだろう。彼らには絶対とも言える厳密なルールに基づいた世界がある。どのアリもチョウもそれぞれの仲間と同じ「世界感覚」によって生きている。彼らの生息環境に、ぼくたちが表向き賞賛している多様性を垣間見ることはできない。アリの歩み方、チョウの飛び方はつねに一定であり、彼らは持って生まれた食性にしたがって限られた餌だけを求める。

では、なぜ人間だけが互いに異なった趣味嗜好や食性を持っているのか。あるいは、なぜ人間だけがそれぞれに違った世界の見方をして日々を働き暮らしているのか。そこには他の動物にはない、人間固有の基軸があるからだろう。その基軸こそが言語であり概念ではないか。直接的にモノを感知するアリやチョウとは違って、人間は言語や概念という知覚を通じてモノを認識する。この知覚作用が後天的ゆえに、個性に変化が生じるのである。経験や知識の違い、それによって形成される言語や概念の違いが人間を「多様性の存在」にしているのだ。

ところが、ほんとうにぼくたちは個性的な人間として多様性を享受しているのかと問えば、かなり疑わしくなってくる。まるでアリやチョウのように一つの客観的世界を生きてはいないだろうか。いつもいつもそうではないにしても、誰もが同じように考え同じように行動するような場面を少なからず経験する。ノーと言うべきところを、みんながイエスという理由だけでノーと言う。あるいは権威ある人たちがこしらえたレールを絶対経路のようにとらえて、その上を疑うことなく黙って走っている。ちょうどアゲハチョウが日光の当たる樹木に沿って飛ぶように……。


繰り返すが、多様性を阻害する元凶の一つが数字だと思うのである。極論すれば、数字も言語表現の一つに過ぎないのに、ひとり絶対的地位に君臨してしまっている。売買関係において、商品には価格、品質、使い勝手、便益などと多彩な価値の要素が備わっているにもかかわらず、端的に商品をよく理解できる要素が価格という数値であるがゆえに、それが際立ってしまう。経営においても、業績という数字以外にいろいろあるはずなのだ。それでも、その他のいろいろにも数値指標を置く。

ピカソとルノワールの絵画を数値評価すると言えば一笑に付すくせに、ある種の競技では「芸術点」なるものをさも当然のごとく設けるのである。「A選手がB選手より上。理由? だって芸術度が高いから」という審査員の主観が、数値化した客観よりも劣っていると言い放つだけの根拠はない。ぼくにしても、講師評価を5段階で採点されるくらいなら、「いいか悪いか」だけで判断されるほうが潔く納得できる。

数字が真実を語る? 数字がすべて? 数字で経営内容がわかる? これらに対する検証なきイエスは、数字への絶対信奉に毒された思い上がりの現れである。数値評価を否定しているのではない。それが一つの表現に過ぎないことを心得るべきなのだ。数字至上主義は子どもや働く人々をアリやチョウに変える。

昨夜の会読会で7人の発表を聞き、ぼくはS氏を最優秀とした。断じて数字の比較などではない。彼のたった一言にぼくの主観が反応したのだ。ただそれだけだ。そして、そのぼくの評価は、数字指標にしていたらまったく別のものになっただろうと思う。点数化しなければ子どもたちの学力はまったく別のものに見えてくる。ひいては人間世界の現在の秩序と混沌にコペルニクス的転回が起こるだろう。おっと、文勢に反省。ここまでかたくなに肩肘張って主張するまでもない。数字だけを通して見る世界はつまらないのだ。個人的には数学は嫌いではないが、無機質な数字よりもおもしろいものが人間社会にはいくらでもある、と言いたかったまでである。

「何が~か?」と「~とは何か?」

先日テレビを見ていたら、ハンバーガーショップの女子店員が「このバーガーはヘルシーです」と言っていた。かねてから「ヘルシー」が本来の「健康的」という意味から逸れて「ファッション」として使われていることには気づいていた。その店員の言い分は、「牛肉が入っていなくて野菜のみのバーガーだからヘルシー」というものである。

ところが、料理番組などではアシスタントが「豚肉を使っているのでヘルシーですね」と、料理の先生に同調する。裏読みすれば、「それは豚肉であって、牛肉ではない」という意図なのだろう。つまり、バーガーショップの店員も料理番組のアシスタントも「牛肉がヘルシーではない」という点で意見が一致している。世界には牛肉を大量に消費する食文化も存在するが、その文化圏ではヘルシーでないものを食しているというわけか。

ひとまず寿命の長短などという野暮な話を横に置いて、日々の食事や材料のヘルシー度について考えてみる。

豚肉が牛肉に比べてヘルシーだからという主張は、トンカツ定食の大がビフカツの小よりもヘルシーを証明するものなのか。あるいは、サラダたっぷりの「非牛肉バーガー」を頬張っていれば、少量の焼肉に舌鼓を打つよりもヘルシーで居続けることができるのか。そんなバカな話はない。菜食主義が肉食主義よりもヘルシーであるならば、世界中に棲息する動物にあっては草食動物が肉食動物よりヘルシーということになる。繰り返すが、長寿とヘルシーを同列で語ることなどできない。ヘルシーだからと言って長寿とはかぎらないし、高齢化社会がヘルシーを基盤にしているとも思えない。


「何がヘルシーか?」と考えるから、都合よく自店のメニューを正当化してしまうのだ。野菜たっぷりがヘルシー、豚肉がヘルシー、さらには豆腐や煮魚がヘルシー……。よく目を凝らしてみれば、ここで言っているのは個々の素材のヘルシー度にすぎない。これは、ギアが上質、ボルトが上質、ネジが上質、歯車が上質というように、個物に格付けしているだけの話だ。これら個々の部品が良質、ゆえに、すべてを組み合わせた一つの統合体も良質とは限らない。つまり、「ヘルシーな野菜バーガー」を食べている人間そのもののヘルシーさの高さは保障されていない。

いやと言うほど、やれ豆乳だ、やれ納豆だ、いやバナナだと単品絶賛する愚を目撃してきたことを忘れてはならない。せめて「何と何を組み合わせればヘルシーになるのか?」というイマジネーションを働かせることはできないのか。

むしろ問うべきは「ヘルシーとは何か?」のほうである。ここまでヘルシーということばをやむなく使ってきたが、それが健康的を意味するにせよ、健全や無事を意味するにせよ、ヘルシーの本質をうやむやにして食品と結びつけて一喜一憂しても始まらない。ヘルシーの本質には、それぞれの生き物ごとの「食性に素直」ということがあるはずだ。それを「旬の食生活」と呼んでもいい。ライオンが草食動物を糧として生きていくのが食性であり、トキはドジョウや小さな虫を糧にして生きている。

人類、いや、わかっているつもりの日本で棲息する人々に限定しておこう。この風土で暮らすぼくたちは雑食という食性を維持してきた。それが「ヘルシー」なのである。

「~とは何か?」という本質的な問いを、「何が~か?」にすり替えてわかったような気になっている。「文房具とは何か?」が作用や目的や質料や形相などの本質を明らかにしようとしているのに比べて、「何が文房具か?」がいかに浅い問いかがわかるだろう。「ホッチキスが文房具」「水性ボールペンが文房具」「手帳が文房具」……これだけでいいのである。そこに知識はあるが、思考の足跡は微塵もない。