記憶の中の魚

魚について語ることなどめったにないが、昨日取り上げたついでに魚にまつわる記憶を少しまさぐってみた。小学生まで遡ったら、魚の記憶が肉の記憶を圧倒していた。記憶領域の狭い肉の大半は鯨肉で、臭みの強かった豚肉がそれに次ぐ。牛肉は「ハレの日」のすき焼きとして登場するくらい。日々の食卓には、脳に良いと言われるDHAを豊富に含んだ、安価な青魚が並んでいた。同じものばかりで飽きるから、どこの家でも調理に工夫を凝らしていた。

肉が魚に追いついたのは肉じゃがやカレーライスをよく食べるようになってからか。やがてトンカツ、少し贅沢になって、ビフカツにビフテキ。もちろん常食からは程遠かったが、肉と魚の記憶がほぼ互角になるのが中学生から高校生にかけての頃だ。やがて一気に肉食時代がやってきた。二十歳になる前に羊肉も食べ始めていた(ラムではなく、くせの強いマトン)。気がつけば肉を好むようになっていた。定食屋のメニューも肉が優位になったのだろう。回転寿司などない頃、二十代にとっては高級化した寿司や刺身に手が届かなくなった。

庶民的な大阪の下町で育った。近所にまだ田んぼがあってザリガニがいた。あまり衛生的ではない川も流れていたが、そこにフナがいた。近所のオヤジがその川の鮒を食べて肺ジストマにかかったという話を聞いた。あの川の生き物を口に入れるのは相当勇気があったか、よほど腹が減っていたかのどちらかだろう。十分加熱しなかったのに違いない。ちなみに、鮒の洗いは今でも鰻屋で出すところがある。食材豊富な現在、わざわざ鮒やコイを食べる人は少なくなった。ぼくは鮒ずしはまったく平気だが、本場近江以外での愛食家をほとんど知らない。


小学生の頃、父のバイクに乗せられて南紀へよく行った。目当てはアジである。バケツ一杯などと粗っぽく勘定するほど、いくらでも小鯵が釣れた。細かくタタキにしたり南蛮漬けにしたりフライにしたり。一週間は鯵づくしになった。

そんなある日、父がスズキを釣って帰ってきた。ぼくにとっては「スズキ」は人名でしかなく、まさか魚にそんな種類があるとは知らなかった。悪戦苦闘しながら父は友人に手伝ってもらって魚拓を取った。なにしろ優に1メートルを超える大物だから墨を塗るのも一苦労だったに違いない。しかし、今にして思えば、鱸というのはだいたいそんな大きさなのである。これは刺身と洗いにして食べた。洗いは新鮮さが勝負なのだが、魚拓に手間取ってからの味はどうだったのか。鮮やかな白身だったのは覚えているが、残念ながら味の記憶はない。鱸はフレンチで食べる機会のほうが多くなった気がする。

その鱸が出世魚だと聞いたのは後年のことである。出世。何と懐かしく響くことばだろう。立身出世にあるように、人は誰でも将来大人になったら出世するものだと思っていた。世間では「早く大きくなって出世して親を楽にしてあげなさい」などと普通に言っていたものだ。だが、これは切ない願いであって、大きくなってもダメな奴はダメということもやがて学ぶ。社会的に高い地位に到ることと成長は違う。実際、ブリがワカシやツバスの出世形であると誰が断言できるだろう。

関西では成長するごとに〈ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ〉と名称が変わる。関東での名変わりはぼくにはあまり馴染みのない、〈ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ〉となる。たしか富山だったろうか、「がんど」と書いてあって、聞けばハマチのことだった。さてさて、鰤は実際に出世しているのだろうか。もちろん鰤には出世の自覚はないだろう。気の毒なことに、鰤がどんな体長であっても出世前でも、人は釣り上げて食ってしまうのだ。

落語や歌舞伎の世界だけでなく、ビジネスの世界でも成長とともに改名してみてはどうか。少なくとも出世した気にはなるかもしれない。ブランドを築いた成功者は改名を好まないだろうが、歴史的には明治の頃までは名前をよく変えたのはご存知の通りだ。幼名が日吉丸で、元服後に藤吉郎という通称まであったのが秀吉だ。苗字のほうはもっと改姓を重ね、木下、羽柴、平、藤原、そして豊臣に到った。今では姓を頻繁に変えてしまうと怪しまれる。