もう30余年も前になる。京都の宿坊で中小中堅企業の人たちを対象に1泊2日の企画研修をおこなった。初日の夕食時の箸袋にハガキの大きさの紙が添えられていて、「食事の五観文」と題した10行ばかりの文章が印刷されていた(五観文は「五観の偈」とも呼ばれる)。
今は胃腸は丈夫だが、働き盛りの当時は不規則な食事時間、時に暴飲暴食に溺れ、胃潰瘍の一歩手前まで行った。一枚の紙に素直に感心し、持ち帰って筆を手にして書いた。長くダイニングキッチンに掲げて、思い出しては読み返した。その書は汚れがひどいので5月の引越時に処分した。下記が食事の五観文である。
一 功の多少を計り彼の来処を量る。
(この食事ができるまでの労力や、どこから来たのかを考える。)
二 己が徳行の全欠を忖って供に応ず。
(自分の日頃の行いが、この食事をいただくに値するか反省する。)
三 心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
(食物に向かって貪る心、厭う心を起こさない。)
四 正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり。
(身体を養い、健康を保つための良薬として食事をとる。)
五 成道の為の故に今この食を受く。
(修行や目的を達成するためにこの食事を受ける。)
初見の熟語もあり、また正しく読めるかどうかもあやふやだった。辞書も引いた。しかし3種類の辞書を引いても載っていなかったのが、三つ目の文中の「貪等」である。いつも気になったせいか、この一文だけは諳じることができた。
貪等は仏教用語であり、食事に対して起こりがちな「もっと美味しいものをもっとたくさん食べたい」という欲望を意味する。その反対の「これは厭だ、あれは苦手だ」と言って遠ざけるのも心の囚われであり執着である。文字通り「貪」は必要以上に欲しがること、「等」は貪りと同類の煩悩だ。
食事を前にして、出されたものを厭うことはまったくない。しかし、この歳になってもまだあれもこれも食べたいという欲がある。食事の五観文のうち、つい油断してしまうのが第三句である。なので、人を貪等まみれにしてしまうホテルのビュッフェや焼肉の食べ放題などは遠ざけるようにしている。
今日一日を振り返ると大したことをしていないので、今夜の夕飯は粗食にするつもり。これは第二句の教えの実践である。


















