「(啓蒙とは)人間が自分の未成年状態から抜け出ること」(イマヌエル・カント)
成人であるにもかかわらず、未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、とカントは言う。いいおとながいつまでも幼稚なのは、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているからにほかならない。
「(米国の反知性主義とは)知的な生き方およびそれを実践する人々に対する憤りと疑惑である。そして、そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である」(ホーフスタッター)
知的な生き方は一部の人たちにとってわかりにくいのかもしれない。あるいは、面倒臭そうに見えるのかもしれない。たしかに、知的な生き方を理解するにはある程度の知性が求められる。それに比べると、反知性主義者の言うことや行動はわかりやすい。
「メキシコとの国境に壁を作れ!」(ドナルド・トランプ)
反知性主義者は良識からズレた発想をする。しかし、ある意味でユニークな発想と言えるかもしれない。国境に壁を作るとか連邦議会を襲撃するとか、良識に随う知者ではなかなか思いつかないアイデアだ。
反知性主義には明けても暮れても同じことを繰り返す傾向が見られる。繰り返しと継続は力の源である。多様性の時代なのに、持ち合わせのワンパターンな知識で間に合わせてしまう。一般的には、知識や教養は自分のためのみならず、社会にある程度適用するために身につけるものだと考えるが、反知性主義はそのように生きようとする善良な人々を気取ったインテリと見なして先制攻撃を仕掛けてくる。
かつては知性主義だった反知性主義者がかなりいる。知的に振舞うのが面倒臭くなった者たちである。別に考える力が衰えたわけではない。むしろ、カント言うところの「脱理性で未成年状態に入る」ほうが楽だから転向したのだろう。
スポーツマンが肉体を鍛えるのをサボれないように、知的生活者は知識を身につけ理性的に考えるなど、知を鍛えることを怠れない。しかし、知的スタミナが切れてきて、知的鍛錬への執念は薄れてくる。それでも、自分が反知性化しつつあることに気づかない。特にシニアの場合、「おい、難しい話はやめようぜ」と「読書が億劫になった」が反知性化の兆候だ。
進展性のないパターン化と陳腐化、同じことを繰り返す神経、型通りな道徳論、こうすれば他人は喜ぶだろうという独りよがりな固定観念……。よく考えてみると、反知性はイデオロギーとは無関係の、日常にも潜む。身近に何人かいるはず。気づいていない本人に注意を促してあげたいが、切り出し方が難しい。
反知性主義がダメで知性主義がいいと言っているのではない。昨日書いたように、反知性主義の対立軸は「良識」である。反知性主義を唱えるすべての人が知性を欠いているわけではないが、ほぼすべての人が良識に問題を抱えている。
〈続く〉