話すことと考えること

シネクティクスという創造技法がある。本格的な実施方法について語る資格はない。おおよそ説明すると、あるテーマについてコーディネーターが数人のメンバーを対象に質問を投げ掛け、「イメージ優先」でアイデアを引き出していく。まるで何のよう? と尋ねたり、それと反対のものは? と聞いてみる。参加者は前言者の意図を汲んだり思い切ってジャンプしたりと縦横無尽……。精度の高さを求めるような深慮遠謀を極力避けて、やや軽薄気味にアイデアの量を求める。

この技法を実践するにあたって「考える前に話せ」という心得がある。〈話す前に考えるのは批評のモットー、考える前に話すのが創造のモットー〉というのがそれだ。もちろん、この話はシネクティクスだけに限らない。どこかの国の大臣のように、無思考で舌を滑らせるのは論外だが、「下手の考え休むに似たり」という謂もある。よい知恵もなくムダに考えるくらいなら、とにかく話してみようではないか――これがシネクティクスの精神。「下手なトークも数打てば当たる」に近い。

「話すと考える、どっちが先?」というテーマについては以前も取り上げた。このことに関しては定期的に書いて考えている。そうせざるをえない状況に最近よく遭遇する。そもそも話すことと考えることを切り離すことはできないし、「後先の関係」に置くことすらできない。ことばに結晶化していないうちは、考えはボンヤリとしてつかみどころのないものであって、ことばにして初めて概念や意味や筋道の輪郭がはっきりしてくる。つまり、ことばにするからこそ思考が体感できると言い換えてもいい。もちろん異論、異見はあるだろう。


クオリアのような鮮明な感覚とは違って、脳内で生起しうごめいている思想や概念はなかなかあらわになってくれない。たとえば、ぼくは今キーボードを叩いて文章をしたためている。すでにタイトル欄には「話すことと考えること」と書き入れた。だから書くべきテーマはわかっているつもりである。上記の三つの段落もだいたいイメージしていた通りに綴ってきて、この段落に至っている。但し、論理・筋道は、書く前よりも書き上がってからのほうが確実にはっきりしている。全文書き終わってから推敲してみるので、さらに自分の考えていることを明瞭に確認できるかもしれない。

話し書くことに高いハードルを感じている人たちがいる。能力があるのにもったいないと思う。話すことでも書くことでもいい、中途半端に考えている暇があったら、とにかく話し始め書き始めればいいと助言したい。少々の粗っぽさや言い間違い・書き間違いくらい構わないではないか。まず話し書くことのフットワークを軽くしてみるのだ。音声にしても文字にしても不思議なもので、口をついて出る情報やペン先から滲み出す情報が思考を触発してくれる。それが稀ではなく、頻繁に起こる。

ネタがなければ考えられない。そう、思考の源泉は情報である。見たり聞いたりして外部から入ってくる情報が刺激を与えてくれる。しかし、情報のことごとくが外部からやって来るわけではない。自分のアタマの中にだって大量の情報がストックされている。だから、音声を発したり文字を書いてみれば、その行為が内なる情報を起動させ、その情報からことばが派生して思考を形づくってくれるものなのだ。無為に考えても時間が過ぎるばかり……。そんなとき誰かに話しかけてみる、あるいは紙にペンを走らせてみる。中毒症状が出てくるほど、「考える前に話し、考える前に書く」を実践すればいいのである。

曲解と虚偽の一般化

昨日のブログで「典型的な牽強付会けんきょうふかいの例を斬る」と意気込んだ。念のために、インターネットも含めていろいろ調べてみたら、「その例」をしっかりと斬っておられる方が少なくないのを知って驚いた。正確に言うと、引用されるその権威者および実験内容に批判的な意見は少なく、ほとんどの批判は「引用に関しての曲解と虚偽の一般化」に向けられていた。おおむねぼくの意見も一致する。

多数派だからホッと一安心などという「長いものに巻かれろ」のスタンスはぼくの性に合わない。世間の誰がどのように唱えていようと、ぼくはある種の確信と良識的な見方によって、権威を引用してこじつける狡猾さを指摘しようと思っていた。その例とは、アルバート・メラビアン博士が実験を通じて導いた〈メラビアンの法則〉の都合のいい解釈のことだ。

マナー、コミュニケーション、コーチング、ファシリテーションなどを専門とする複数の講師が、メラビアンの法則を曲解してジェスチャーや表情の優位性を強調する一方で、言語を見下すような発言をしたのを何度か目撃している。この法則は、一対一のインターパーソナル・コミュニケーションに限定して、話し手が聞き手にどんな影響を与えたかを実験して導かれたものである。

実験によって、影響に占める割合は、表情やジェスチャーが55%、声のトーンや大きさが38%、話す内容が7%ということがわかった。こう説明して、講師たちは「ことばはわずか7%しか伝わらない。コミュニケーションにおいてことばは非力なのだ」というような趣旨を、さも真理のごとく説く。これは、目に余るほどのひどい一般化なのであり、メラビアン博士を冒涜するものである。もちろん、こんな虚偽に対して免疫のない、無防備で純朴な受講生はものの見事に説得される。そして、講師によって引き続きおこなわれる、取って付けたような身振りやマナーや表情の模範例に見入ることになるのである。


アルバート・メラビアン博士自身は、ちゃんと次のように断っている(要旨。原文は英語)。

この法則は「感情や態度が発する言行不一致のメッセージ」についての研究結果に基づく。実験の結果、「好感度の合計=言語的好感度7%+音声的好感度38%+表情的好感度58%」ということがわかった。但し、これは言語的・非言語的メッセージの相対的重要性に関する公式であって、あくまでも「感情と態度のコミュニケーション実験」から導かれたものだ。ゆえに、伝達者が感情または態度について語っていない場合には、この公式は当てはまらない。
*inconsistentを「言行不一致」と意訳した)

ぼくも曲解しないように気をつけて書くが、下線部から、言語的メッセージを伝えることを目的としたコミュニケーション実験ではないということがわかる。だから、回覧板には適用しない。読書にも適用しない。会議や対話にも当てはまらない。携帯電話で「明日の夕方5時に渋谷でお会いしましょう」という簡単なメッセージも対象外だ。要するに、ほとんどの伝達・意見交換場面には法則が当てはまらないのだ。ある種の顔の表情とジェスチャーを伴って単発のことばを発した場合のみ有効という、きわめて特殊なシチュエーションを想定した実験なのである。たとえば、コワモテのお兄さんがどんなにやさしいことば遣いをしてきても、顔ばっかりが気になってことばが耳にはいらないというような場合など。

もし本気でコミュニケーションに果たす言語の役割が7%だと信じているのなら、講師はずっと顔と身振りで思いを伝えればよろしい。それで93%通じるのだから楽勝だ。パワーポイントやテキストも作らなくていいではないか。いや、そんな皮肉っぽい批判をするのが本意ではない。言語理性の危機が叫ばれ、ボキャブラリー貧困に喘ぐこの社会をよく凝視し、「言語7%説」が日常化するのを案じて、「これはいかん、もっと言語の比重を高めなければ」と一念発起するのが教育者ではないか。

オカノの法則 「講義中、居眠りをする受講生に対しては、言語・音声・表情のすべてのメッセージ効果がゼロになる。」

オカノの法則 「パワーポイントのプレゼンテーションにおいて、掲示資料と口頭説明が合わないとき、人々は掲示資料に集中し、耳から入ってくる説明を聞き流す。」

都合よく感性に逃げる

十数年前になるだろうか、二部構成の講演会で、ぼくが第二部、「偉い先生」が第一部ということがあった。本来ぼくが前座だったのだろうが、先生の都合で入れ替わった。礼儀かもしれないと思って、先生の第一部を聞かせてもらった。「ことば・・・じゃない、こころ・・・なんだ」が趣旨で、要するに「理屈じゃなくて感性」という話である。ちなみに、ぼくのテーマは対照的なディベートであった。

どんな主張をしてもいいと思う。けれども、「偉い先生」なんだから、理由なり論拠は付け足しておくべきだろう。講演中、ぼくの素朴な「なんでそう言えるんだろう?」という疑問は一度も解けなかった。「理屈じゃなくて感性」という理由なき主張は、「理屈を言いながらも感性的であることができるのでは……」と考える聴衆に道理を説いていない。しかも、先生、いつの間にかことばと理屈をチャンポンにしてしまった。さらに、先生、「ことばじゃない、こころなんだ」というメッセージをことばで伝えているのだ。ことばと感性を二項対立的にとらえていること自体が理屈ではないのか、とぼくなんかは考えてしまう。

「ことば vs 感性」というふうに対立の構図に置きたがるのが感性派に多いのも妙である。どっちを欠いても人間味がなくなるのでは? とぼくは問いたい。ことばが先で感性が後か、感性が先でことばが後か――大した論拠もないくせに拙速に「感性」に軍配を上げないでいただきたい。なぜなら、ことばのない動物に感性があるのかどうかは証明しえないし、彼らに聞くわけにはいかない。明白なのは、ことばを使う人間だけに感性という概念が用いられているという事実だ。つまり、ことばを切り離して感性だけを単独で考察するわけにはいかないのである。ましてや、優劣論であるはずもない。少なくとも、「ことばじゃない、こころなんだ!」という趣旨の講演会に来ている人は、ことばを自宅に置いてきて感性だけで聞いているわけではない。


一昨日、高浜虚子の『俳句の作りよう』を通読した。俳句は「感じたことをことばに変える」ものなのか。ここで言う「感じたこと」はもはや感性というよりも「感覚」というニュアンスに近いのかもしれないが、では、感覚が先にあってことばが後で生まれるのか。ぼくの俳句経験は浅いし、どんな流派があるのかも知らないが、俳句において「言語か感性か」などと迫ることに意味はないと思う。俳句を「添削と推敲の文学」とぼくは考えているが、ことばと感性は「和して重層的な味」を出すのだろう。感じるのとことばにするのは同時かつ一体なのではないか。虚子はその本の冒頭で次のように言っている。

「俳句を作ってみたいという考えがありながら、さてどういうふうにして手をつけ始めたらいいのか判らぬためについにその機会無しに過ぎる人がよほどあるようであります。私はそういうことを話す人にはいつも、何でもいいから十七文字を並べてごらんなさい。とお答えするのであります。」

素直に解釈すれば、ことばを十七文字並べることを、理屈ではなく、一種感性的に扱っているように思える。むしろ、「何かを感じようとすること」のほうを作為的で理屈っぽい所作として暗に示してはいないか。ことばを感性的に取り扱うこともできるし、感性をいかにも理屈っぽくこねまわすこともできる。

一番情けないと思うのは、ことばの使い手であり、ことばを使って話したり書いたりしている人たちが、ことばを感性の下位に位置させて平然としていることである。「ことばはウソをついたりごまかしたりする」などと主張する人もいるが、このとき感性だって同じことをするのを棚に上げている。このように都合よく主張を正当化していくと、やがて権威の引用をも歪曲してしまう。と、ここまで書いてきて、そうだ、あのエビデンスの濫用を取り上げなくてはいけないと正義感が頭をもたげてきた。明日、典型的な牽強付会の例を斬る。 

笑えない話の後始末

笑いをとらねばならないのはお笑い芸人だけではない。笑いでメシを食うプロと、そうではないアマ。比較すれば、前者が厳しいと誰もが言うかもしれない。ところがどっこい、アマチュア間の笑いがらみのシーンは想像以上に過酷なのである。テレビのお笑い番組を見ればわかるが、プロには逃げ道が用意されている。「受けない」のを売りにする芸人。「すべる」のを期待してもらえる芸人。空気を凍らせてしまっても、助け舟を出す同業者もいる。

言うまでもなく、売れる芸人もいれば売れない芸人もいる。序列のある業界だから、スターもいればアマチュア以下もいる。人気はどう転ぶかわからない。明日は我が身だ。売れなくなっても、「売れない」のを売る手だってある。親しい仲間は救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。まあ、さしたる業界通でもないぼくの推測なのだが、「同病相憐む」のことわりがそこでは生きているようだ。

講演の冒頭でジョークを仕掛けたある講師。絶対に受けると確信しての「つかみ」であった。はやる気持をなだめながらも、内心おもしろくてしかたがない。演壇に上がる前から自分自身が笑いを押し殺さねばならない状況である。講師紹介があって、拍手で迎えられて演台に向かう。つかみの効果を最大化するには余計な挨拶は無用、寸法を測ったように計算通りにジョークで端緒を開いた……。だが、クスッとも笑い声が起こらない。会場の笑いと同時に破顔一笑しようと目論んでいた講師の顔だけが、笑う直前のスタンバイモードで引きつったまま。聴衆は時に残酷である。


技と芸があるからか、仕込みと仕掛けがいいからか、それとも単に聴衆に恵まれ続けたからなのか……理由はよくわからないが、ぼくが会場を凍らせたことはかつて一度もない。期待したほど笑ってもらえなかったことはあるものの、大すべりした経験はない。講師業においても、笑いは本題と同程度に重要になってきた。そこにはリスクもある。「笑えない話」の責任は、もちろんその話をした人間にある。そして、万が一のための保険をかけるのを忘れては、消沈した空気の後始末は不可能である。

どんな保険か? ややハイブローにジョークを設定しておくのである。こうしておけば、笑いが起こらなかったとき、一部の聴衆が「笑えないのは自分の能力とセンスの問題ではないか」と懐疑してくれる。さらに、誰よりも高尚なジョークを解せるという自信家が何人かいるものなので、少数ではあるが、見栄を張ってそこかしこで笑い声を発してくれる。こうなると、笑わなかった聴衆たちもやや遅れ気味に同調するように笑い始める。ジョークを終えてから数秒という不自然な時間差が生じるのはやむをえないが、これはこれで場が沈んでしまうことはない。


昨夜読んでいた英書にこんなジョークがあった。

若い新婚さんがアパートに引っ越してきた。食堂の壁紙を張り替えることにした。同じ広さの食堂がある隣人宅へ行き、尋ねた。
「壁紙を張り替えたとき、お宅では壁紙のロールを何本買いましたか?」
7本ですよ」と隣人は答えた。 

新婚夫婦は高級な壁紙を7本買い、張り始めた。ところが、4本目のロールを使い切った時点なのに食堂の壁紙作業が終わってしまった。二人は隣人の所へ行き、不機嫌をあらわにしてこう言った。
「お宅の助言通りにしたら3本も残ってしまいましたよ!」
隣人は言った。「やっぱり……。あなたのところでも、そうなっちゃいましたか」


笑える話? 笑えない話? どっちだっただろうか。もし笑えない話だったら、その責任は、読者、ぼく、それとも原書の著者? もし笑えたのなら、その手柄は原書の著者、訳したぼく、それとも読者? ジョークを笑うのはむずかしい。ジョークのネタを仕入れて披露するのはさらにむずかしい。一番安全なジョークの伝え方は文字である。笑いが不発のときに後始末を取らなくて済むからだ。

【注】余計なお世話だが、「何ロール使いましたか?」とは聞いていない。「何ロール買いましたか?」と聞かれたから「7本」と答えた。ジョークの説明ほど野暮で無粋なものはない。  

とても滑稽な台詞

もうギャグとしか言いようがない。どうしようもなく滑稽なのである。あまりにも滑稽なので、もはや笑うことすらできない。油断すると呆れることも忘れる。いや、下手をすると息をするのも忘れてしまいそうだ。何とも言えない感情に襲われて、ただただ冷ややかに「こ、っ、け、い」とつぶやくしかなかった。

政治家という職業人の舌がすべることに関しては、あまり気にならない。勢い余っての失言や無知ゆえの失言や厚顔ゆえの失言は、ギャグにもならず滑稽とも形容できない。気にならないというよりも、強いアテンションの対象にならないというのが当たっている。ある意味で、政治家という職業人に失言はとてもよくお似合いだから、不自然なミスマッチとは思えないのである。

 政治家の〈話しことばパロール〉は独自の体系をもつ。つい昨日まで普段着のことばで喋っていたあの人もこの人も、まさかあなたは絶対に言わないだろうというその人も、政治家になったその日から「~してまいりたいと存じます」と、言語ギアをセピア色した前時代バージョンへと切り替える。そして、誰かの不可解な発言や納得のいかない対応を取り上げて、ついに彼らは、「いかがなものか?」という常套句の常習者になる。


職業とパロールは密接な位置関係にある。ナニワ商人の「まいど!」やサムライの「拙者」と同じくらい、政治家の「いかがなものか?」が定着してしまった。これほどではないが、政権奪取を目指す側の前党首の「なんとしてでも」というのも、あの人にはよく合っていたような気がする。しかし、真性のどうしようもない滑稽は、似合ってるとか似合ってないという次元を超越する。

ユーモアセンスがあっておもしろい知人の男性が、ある会合の開会の冒頭で大真面目に式次第を読み上げたとしたら、それが、「まさか!?」と同時に湧き起こる「どうしようもない滑稽」である。あるいは、ぼくをよく知る人たちが、ぼくの「ただいまご紹介いただきました岡野と申します」を聞いて、「まさか!?」と耳を疑い、「どうしようもない滑稽」を感じるだろう。残念ながら、この種のパロールがぼくの口からこぼれることは絶対にない!

さて、冒頭の話に戻ろう。政権党の重鎮が発した「男の花道を飾る」というパロールのことだ。一瞬、ぼくは清原だと思ってしまったくらいである。前の前の前の首相時代に「劇場」とよく形容されたが、政治の舞台は時代劇色だとかねてから思っていた。だが、「男の花道を飾る」と聞けば、出し物は時代劇から演歌ショーに変わったと考えざるをえない。いやはや、盛夏を迎えて、連日暑苦しい演歌を聴かねばならないのか。はたして新曲は聴けるのか。音程は大丈夫なのか。えっ、そんなデュエットあり? まさか! どうしようもない滑稽だけは勘弁願いたい。 

考えが先か、ことばが先か

「考えること」と「ことばにすること」の関係についてはテーマとしてずっと追いかけている。「考えている?」と尋ねて「はい」と返ってきたからと言って、安易に「考えている」と信じてはいけないなどの話も2月に一度書いた

「考えていることがうまく表現できない」「想いを伝えられない」などの悩みをよく耳にする。この発言は、間違いなく「考えていること」を前提にしている。私はよく考えている、思考も意見もある、ただ残念なことに「話す」のが下手なんです――ぼくにはそんなふうに聞こえる。皮肉った解釈をすれば、「高等な思考力はあるのだけれど、ペラペラと喋る下等なスキルと表現力が足りない」と言っているかのようだ。

冷静に考えてみればわかるが、発話したり書いていない時の頭の中はどんなふうになっているか。考えの輪郭ははっきりしているか、思考はことばとしっかりと結びついているか、筋道や分類や構成は明快か、すべての想いが手に取るように生き生きとしているか……。決してそうではない。断片的なイメージや単語や文節が無秩序にうごめき、浮かび上がったり消えたり、互いに結びついたり離れたりしているものだ。少なくともぼくは、誰かに喋ったり書いたりしないかぎり、自分がいったい今何を考えているのかよくわからない。


もし考えることがことばよりも先に生まれており、明快かつ精度が高いのであれば、わざわざ言語に置き換える必要はないではないか。思考それ自体が何らかの対象を認識して十分に熟成しているのならば、なぜ思考が表現の力を借りなければならないのか、その理由が説明できない。こんなふうに哲学者のメルロ=ポンティは「言語が思考を前提にしていること」に異議を唱える(『知覚の現象学』)。

考えている(つもりの)あなたは、その考えを自分に向かって表現する、あるいは誰かに語ったり紙に書いたりする。その時点で、思考がことばに翻訳されたと思うかもしれない。あるいは、あることばが口をついて出て来ないとき、それが単純に度忘れによることばの問題だと思ってしまうだろう。しかし、実はそうではないのである。話したり書いたりする瞬間こそが、考えを明快にし輪郭をはっきりさせるべく一歩を踏み出した時なのである。話す前と話した後、書く前と書いた後の頭の思考形成の状態を比較すればよくわかるはずだ。

ことばが思考を前提にせず、思考もことばを前提にしているのではないかもしれない。もしそうだとすれば、「想いがことばにならない」という言い訳は成り立たない。敢えて極論すれば、話す・書くことが思考の醸成につながるのである。思考を騎手とすれば言語は馬である。しかし、この人馬一体においては騎手が馬を御しているのではなく、馬のほうが騎手を乗せて運んでいるのかもしれない。そう、思考は言語によって遠くへと走ることができる。だからこそ、馬を強く速く走れるように訓練しておかねばならないのだ。 

分母と分子で考えている?

広辞苑第六版の編集方針。最初の項目は次のように書かれている。

一、この辞典は、国語辞典であるとともに、学術専門語ならびに百科万般にわたる事項・用語を含む中辞典として編修したものである。ことばの定義を簡明に与えることを主眼としたが、語源・語誌の解説にも留意した。収載項目は約二十四万である。

 中辞典にして24万語だ。あいにく手元に大辞典はないが、日本国語大辞典では見出し項目は50万になるそうである。方言も含めればいったいどれだけの語彙が存在しているのだろう。言うまでもなく、収載された見出し語はありとあらゆる文献から拾われたもの。文献に出てこないことばを見つける手立てはない。もっと言えば、ことばというラベルを未だ付けられていない抽象的・物理的事象や現象について、ぼくたちはその定義を知ることはできない。いや、仮にそういう事象や現象が存在していても認識できていないのかもしれない。新しいものを見つけたら命名するのが人の習性だからだ。

テストや受験、資格のための検定などに対してはDNAレベルで嫌悪してきたし、今もDNAは変異していない。やむなくすることが少なくないが、原則として採点側や評価側に立つのも好まない。だいたい分母に満点を置いて分子に採点された点数を配分するのが気に入らない。100分の70って一体何なのだ? その満点の100は当然出題者の意思で決まる。しかも、その100はこれまた何千か何万かから抽出された分子でもある。合格者を多く出したいかゼロにしたいかは、抽出作業過程での出題者の裁量でどうにでもなる。


任意に設定された満点に向けた学習は功利的かつ便宜的である。そんな学習ばかりしてきたから実社会でろくに役に立たないのだ。それを反省して一から勉強し直している。にもかかわらず、目標を失いたくないから検定や単位などの「合格」を目指す。生涯、満点への飽くなき学びが続くというわけである。

のべつまくなしに分母と分子で物事を測っていると、本気の学習などできなくなる。本気の学習とは、今の自分の能力を、「設定された満点」に向けるのではなく、際限なく高めていくものだ。日本語の50万語分の5万語しか知らないという思いなどまったくどうでもいい。あるいは語彙力判定テストを受けて、2万語と評価を下されても落ち込むことはない。森羅万象の知恵の前では何人も無知なのである。そう、分母などいくらでも小さくしたり大きくしたりするなど自由自在だ。

いま認識できている力、いま運用できている力――それを着実に高めればいいのである。満点という到達点などまったく意識する必要などない。それが実社会での本物の学習のはずだ。その過程で、自分が従事している仕事において「閾値越え」が生じる。

もちろん分母と分子をしっかりと意識するほうがよい場面もあるだろう。一例としては、財布に一万円札があって消費していく過程は、分母(所持金)と分子(支出額)の関係。分子が大きくなって分母に追いついたとき、財布の中が空っぽになっている。たぶん経済感覚には分母と分子が欠かせない。分子を使いすぎないという節約と、分母を欲張りすぎないという節度という意味で……。  

「です・ます」のギマン

再来週から京都で4年目を迎える私塾の第1講と第2講の講義テキストを併行して仕上げている。実は、まだだいぶ先の5月のほうが進んでいて、間近の『テーマと解決法の見つけ方』のほうに少しアタマを悩ませている。とか何とか言いながらも、テキストは明日仕上げるつもり。

話し慣れたテーマなのだが、いつも同じパターンではおもしろくない。そこで、仕事やビジネスの問題・課題と、プラトンから始まる哲学命題のいくつかを重ね合わせて新しいソリューション発見の切り口を提供しようと考えた。しかし、実際に考え編集していくと、きわめて無茶な試みであることがわかってきた。とても難解になってしまうのである。自分で悦に入っても、塾生にはチンプンカンプンの可能性がある。さりとて、もはや「やっぱりや~めた」というわけにもいかず、思案した挙句にテキストを「です・ます」で書くことにした。

順調にテキストの半ばまでそのように書いてきた。そして、出来上がったところまで再読したところ、「です・ますの欺瞞性」に気づいてしまった。「問題が山積する時代。完璧なる正解でなくても、問題の原因に少しでも斬り込める解法を携えることができれば、時間と苦労は半減する。」とふだん記述するぼくが、「問題が山積する時代です。完璧な正解が出なくても、問題の原因に少しでも斬り込める解法を携えることができれば、時間と苦労は半減します。」と書いているだけの、情けない一工夫だったのである。

これで硬派な文章がやわらいだ気になるのは、どう考えても錯覚である。その錯覚を利用する書き手の思いは欺瞞に満ちている。やっぱり「です・ますは、や~めた」とさっき決意し、午後から書き直すことにした。


「哲学入門」や「よくわかる哲学」などと題された本を読んでみて、何だかよくわかるような気がするのは、ひとえに「です・ます」の巧妙な罠のせいである。形而上学的な概念を表現するときは、概念そのものの専門性を控えるべきであって、文末で難度ショックをやわらげるなどというのは姑息な手法なのだ。

「君は何歳?」を「ぼく、おいくちゅですか?」と言い換えられる日本人の、言語表現における相手に応じた変わり身は大したものだと思う。だからと言って、「年齢を問う」という、実は高度な(?)抽象概念が変化しているわけではない。あるいは、厳密に言えば、表現がやさしくなっているわけでもない。年齢や性差に応じた表現バリエーションが豊富であるがゆえに、やむなく使い分けているにすぎない。

とにもかくにも、好んでぼくの話を聞きに来る人が、「です・ますオブラート効果」でわかりやすいと感嘆するとも思えない。いや、何人かいるかもしれないが、そんな類の梯子を使って彼らのところに降りて行くのなら、別の階段を用意してこちらの方に上がって来るように仕掛けるべきだろう。どんな階段? それは編集構成のわかりやすさである。

論理が飛躍したり抜け落ちたり

どういうわけか知らないが、ぼくのことをガチガチの論理信奉者のように思っている人がいるらしい。あるいは、「理性と感性、どっちが重要か?」などとしつこく迫ってきて、無理やりに「そりゃ、もちろん理性だよ」とぼくに言わせたくてたまらない塾生もいる。だが、昨日の「川藤出さんかい!」を読んでもらえばわかる通り、ぼくは論理の飛躍や欠如から生まれる不条理やユーモアをこよなく愛している。仕事柄論理や理性にまつわる話をよくするが、四六時中そんなことを考えているはずがない。

「川藤の話、思い出して久々に笑いました。この流れと、今でも使えますね。モルツのコマーシャルは他の作品もよくできていました。一つ、ナンセンスものとして印象に残っているのが、ヤクルトです。たぶんご存知でしょうが、ご紹介しておきます……」

昨夜、ブログを読んだ知人がメールをよこしてきた。彼が察した通り、ぼくはそのコマーシャルを知っていた。知ってはいたが、そうやすやすと思い出せるものではない。これはと思った広告コピーはだいたいノートにメモしている。このヤクルトのもどこかに記した記憶がある(ぼくは二十代後半から三十代前半にかけて広告やPRのコピーを書いていて、名文系・おもしろ系を問わず、気に入った文章を集めていた。この癖は今も続いている)。

知人が思い出させてくれたコマーシャルがこれだ。

「なんで(ヤクルト)毎日飲むの?」
「からだにいいからでしょ」
「なんでからだにいいの?」
「毎日飲むからでしょ」

ナンセンス論理の最たるものに見えるが、「なんで」の問いを「何のために」と解釈したり、あるいは「何の理由で」に置き換えてみると、おやおや意味が通っているではないか。因果関係的には、「毎日飲む(因)→身体にいい(果)」である。目標条件化してみると、「身体にいい」という目的を達成するための条件の一つが「毎日飲む」ということになる。

「ヤクルトを毎日飲む目的は何か?」「健康のためである」――これはよし。
「なぜヤクルトは健康にいいのか?」「毎日飲むからである」――これもよし。

四行まとめて読むとナンセンスだが、前の二行を目的の質問と応答、後の二行を原因の質問と応答というふうに読めば、やりとりはちゃんと成立している。


感謝の気持を込めて、今朝ぼくが送りつけたコマーシャルメッセージ。

「メガネはカラダの一部です。だから東京メガネ」

どうだろう、たまらないほど強烈なロジックではないか。これこそ、居合わせた人々全員をよろけさせる天然ボケの力だ。論拠を抜いてやると文章は滑稽になるのである。 

方向性とその含意

かつて「そこのところ、ひとつよろしく」は、「どこをどれだけよろしくするのかわからない」けれども、何とかよろしく取り計らわれたものである。これでもコミュニケーション効果があったのだ。今ではメッセージ性が失われた虚礼語になり果ててしまった。意味が通じることを過信してはいけない。意味を共有することは大変なことなのである。意思疎通コミュニケーション意志疎通不全ディスコミュニケーションはいつも拮抗している。そう考えておくのがいい。


リーダーは方向性を示した。部下はその方向性を額面通りに理解して、具体的な行動に移した。しかし、その行動はリーダーの思惑とはまったく異なるものであった。「おい、含意を汲んでくれ、含意を」とリーダーは命令調で懇願する。

行動は指示された方向に向いてはいるのだが、なんだかしっくりこない。読むべきところが違っているのである。よくある話だ。「頑張れとは言ったが、徹夜までしろとは言ってない」などもその一つ。「頑張る」という方向性の中に徹夜というアクションはありえるだろう。しかし、肉体を疲れさせるそんな策を期待したのではない……というわけ。

「ことばの微妙なあやを理解してくれない」というぼやきをよく耳にする。「行間を読ませようとしたりニュアンスを伝えようとしたりしてもダメ。一言一句、野暮なくらいに指示しないととんでもないことになる」――ふだんギャグ連発の課長たちが真顔になってこんなふうに嘆く。そもそもコミュニケーションはその本質においてこのようなストレス要因を秘めるものなのだ。


思い浮かぶのは10年以上前のモルツのテレビコマーシャル。覚えている人もいるだろう。観客の一人である桂ざこばが、「川藤出さんかい!」と叫ぶ。その声が届いたわけではないが、モルツ球団のベンチは「代打川藤」を告げる。川藤、ベンチから出て素振り。その姿を見て「ほんまに出して、どないすんねん」と呆れるざこば。

そう、まさにこんな感じである。感情が高ぶって「出さんかい!」と言ったまでで、ほんとうに出せとは言ってはおらん。世間のリーダーたちはこの本意をわかってほしいのだろう。とりわけ桂ざこば型の、すぐに苛立つリーダーが課す指示はことば足らずで極論めく。だいたいこのタイプは甘えん坊ゆえ、「指示の背後にある自分の気持を汲んで考えてほしい」と部下に言っているつもり・・・なのだ。だが、意に反して指示はそっくり額面通りに実行されてしまう。己にも非があることに気づくので、呆れるか苦笑いするしかない。

含意が伝わらない、汲んでもらえないというのはゆゆしき問題か? いや、実はそうではない。もどかしくストレスも溜まる一方で、ユーモアやジョークが生まれてバランスを取ってくれるのである。いつの時代もコミュニケーション行動は、通じる生真面目と通じない非真面目をともなっている。