ありえない「みんな」

パンテオン(Pantheon)はギリシア語起源、由来は“pan+theos”。「すべての神々」のことで、転じて万神殿を意味する。建立当時の二千年前はまさに「神様のデパート」の様相を呈していたが、後世になるとキリスト教だけを崇めるようになった。あの神もこの神も祀りたいという気持ちはわかるが、必ずしも現実的ではなかったようである。

すべて、全部、みんな……。理念は結構なのだが、めったに長続きしない。まんべんなく公平は実現したためしがなく、万民のための策を講じているつもりでも、万民と呼ぶ対象がすでに「みんな」ではない。万人向けは誰にとっても喜ばれない場合も少なくない。

「ローマに行くのですが、パンテオンは一度見ておいたらいいですかね?」と聞かれて、「ええ、ぜひ一度。一度は見ておきたいですね。ツアーにも含まれていますし、みんな・・・見学していますよ」と答えた。よく考えて答えたのではない。口走ったというのが正しい。みんなが見学しているという確証あっての助言ではない。それどころか、「みんな見学しています」はいい加減なな証言なのである。


ぼく自身はパンテオンに二度足を運んだ。それでも、「みんな見学しています」と言った時のみんな・・・に自分が含まれていないことを自覚している。他の人たちというほどの意味である。みんなは曖昧語だ。決して「全員」ではない。もっと言えば、みんなを定義することは不可能。文脈に応じてそのつど変わるし、もしかすると、現実にはありえない空語なのかもしれない。

以前、大阪限定の啓発コマーシャルがあった。「ここは駐車禁止です!!」という警察官に対して、主婦が反発する。「なんで私にだけ言うの!? みんな・・・停めてるやないの!」 ここでのみんなとは自分を除く他者のこと。極端に言えば、他者は一人でもかまわない。みんなはall(すべて)ではなく、someone else(他の誰か)のことだ。

結党当時は勢いのあった「みんなの党」。みんなという命名に無理があった。みんなは一握りの人たちのことで、党首からすれば仲間というほどの意味だった。そして、みんなは崩壊した。良識的に考えればわかることだ。国家や企業や党がみんなのことを考えているはずがないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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