行き先を矢に似せたデザインで示してくれる「矢印」。地図上の目当ての場所に向けて「←ココ」と記してあるととてもわかりやすい。目的地に接近すればするほど、矢印のピンポイント効果は高くなるようだ。
ところが、たとえば駅構内の矢印はどうだろう。「地下鉄中央線→」などという表示はきわめて漠然としていて、一応矢印の方向に歩を進めるものの、迷わずに辿り着ける保障などない。とりわけ上向き(↑〉や下向き(↓〉にはよくよく注意したほうがよろしい。これらベクトルが示すのは、それぞれ「階上」「階下」という抽象概念にすぎない。そこに至る手段がエスカレーターかエレベーターか階段か、はたまた飛び上がるのか飛び降りるのかは不明である。
矢印の行き先を突き止めるだけの精神力と体力のない高齢者が右往左往している場面によく出くわす。当然駅員に尋ねることになるが、駅員の説明の随所に人差し指を使った矢印が登場するのである。壁に貼られた矢印の表示が指によるライブの矢印に変わるだけだ。結局駅員はお年寄りをかぎりなく目的地に近いところまで連れていくことになる。
資料に目を通したり本を読んでいたりするとき、小さなチャートの中に矢印が散りばめられているのに気づく。「ターゲット設定→強みの訴求→顧客満足」などと矢印が概念をリレーしている。油断すると、すっと流れていく。いかにも理路整然とつながっているように通り過ぎてしまう。
しかし、ちょっと待てよ。矢印がバトンだとすれば、そのバトンリレーはうまくいっていないぞ、ということに気づく。バトンが落っこちているじゃないか!
PDCAサイクルは、PLAN→DO→CHECK→ACTと仕事や業務のサイクルを回せと教える。矢印は同じ長さで表現されているのだが、よく観察すれば、PLANからDOの矢印が実はもっと長いものであり、CHECKからACTへの矢印が一本とはかぎらないことがわかってくる。
自分のことを棚に上げて論うつもりはない。ぼくもテキストやレジュメやパワーポイントで矢印をふんだんに使い、その便利さの恩恵を受けている。しかし、知らず知らずのうちに矢印を牽強付会気味に使っていて反省しきりである。だから、「A→B→C」と書くときに、なるべく矢印のスムーズさに気をつけるようにし、Aが原因でBが結果であるとか、実際はこんな一本道で脈絡がついているのではないとか、口頭で補足するようにしている。
矢印には「勝手にそうなる」「必然の結果として」というマジカル効果がある。便利だが、緻密な思考を省略してしまうので、できる人はゆるゆる論理を見抜いてしまう。