自宅に電気スタンドが二つある。どちらも省エネ対応製品ではない。二つのうち古いほうは、1987年会社創業時のお祝いに電化製品販売店の知人から贈られたもの。首と言うか胴体と言うか、くねくねと上下左右に曲げられるタイプ。当時としては新しかったのだろうか。
何年か前に「大阪くらしの今昔館」で昭和家電を一堂に集めた展示会を観た。家電メーカーの海外販促の仕事を手伝っていた関係で、松下電器(現パナソニック)とシャープの展示館は見学している。昭和家電はおもしろい。実際に使っていたので肌感覚がよみがえる。父親が新しい家電製品に飛びつくタイプだったので、たいていの製品でわが家は町内で一番乗りしていた。
その「今昔館」で買った図録『昭和レトロ家電』を眺める。数ある家電のうち、昭和30年代の白黒テレビ、洗濯機、トースターなどが特に懐かしい。電気冷蔵庫が発売されて重宝したが、その直前までは氷式冷蔵箱を使っていた。毎日氷屋が運んでくる氷を入れて冷やす。電気製品ではないから図録には載っていないが、今にして思えばあの冷蔵箱はレトロ中のレトロだった。
昭和31年、弟が生まれた直後に母親が商店街のガラポンで特賞の玉を出してみせた。景品は洗濯機だった。親族の誰かがリヤカーを借りてきて自宅に運んだ。手動の脱水ローラーがついた初期のものである。「わたしは引きが強い。あの子は運を持ってきた」と母親は自慢していた。
小学校4年の時だったと思うが、海外旅行できるほどの大きなトランクのような重量級の大物がやってきた。母の弟は当時松下電器に勤めていて、画期的な商品の一号機が出たと父親に伝えた。父親がパスするはずがない。何台売られたのか知らないが、かなりの希少品だったことは間違いない。
それは、オープンリール方式のテープレコーダーだった。わが家にやって来てしばらく、ただ声を吹き込んで、それを再生して喜んでいるだけだった。町内の人たちや友達がよくやって来て声を吹き込んでは、自分の声が変な声に聞こえたのでケラケラと笑っていた。ただそれだけ。
みんなが飽きかけた頃から父親が当時習っていた民謡の練習に使い始めた。その後は何年も埃をかぶったが、大学生になったぼくが英語の勉強に使うようになった。テレビの英語番組を録音したのだが、テレビとテープレコーダーを直接つなぐ機能がないので、テレビのスピーカーの前にマイクを置いて、声も音も出さずに録音していた。後で再生すると、英会話シーンの合間に「ご飯、できたよ~」という母親の声が入っていたりした。
昭和家電は微笑ましいノスタルジーだ。