『注の注の注』と題して一文を書いたことがある。あれから10年が過ぎ、よく似たことがデジャブのように繰り返された。今から書く文章は前の文章とは異なるが、同じテーマなので“reprise“(反復)と「注」のつもりで補った。注の注の注とは、付箋紙に付けた付箋紙に付けた付箋紙……のようなイメージ。
先日再読した本は、一冊のうち本文が3分の1、残りの3分の2が注釈・解説・あとがきという割合だった。全ページが縦書きの二段組みで、上段に本文、下段に脚注という割り付け。脚注を読まずに本文だけ読むとさっぱりわからないので、本文を2、3行読むたびに脚注を読むという具合。本文をスムーズに読ませようと意図したはずの脚注が、逆に本文の読みを中断させるという構造的問題を抱える書である。
類は友を呼ぶように、注は注を呼ぶ。注のための注が呼び寄せられ、そのまた注も続いてやってくる。いつまでたっても本題に入り込めないもどかしさ。本文という本線から脱線しても、おもしろさや期待感が薄まらないならいいが、そうはならない。説明という迂回は集中力を断線してしまう。
ありそうもない話だが、ふと妙なことを考えた。もしかするとこの本は、最初に注釈が書かれたのではないか……注釈が仕上がってから、それぞれの注釈にふさわしい本文が書き足されたのではないか……と。いや、最初にとりあえず文章を書いてみて、書き終わった後に本文と注釈に仕分けしたのではないか……とも考えた。
ていねいに注を付ける著者には親切でお節介な人が多いのだろう。また、読者便宜ではなく、自分にとって理解しづらい箇所を自分のために補っている人がいるかもしれない。これは翻訳者に多い。哲学書などは先人の知を暗黙の前提にしているため、不案内な読者への補足説明は不可欠になる。とは言え、できるできないにかかわらず、本文で何とか完結させる努力の一端を示してほしいものだ。
注の注の注があるのなら、「まえがきのまえがきのまえがき」も「あとがきのあとがきのあとがき」もありうる。同語を繰り返すのが面倒なら、トリの最後を大トリと呼ぶように、大まえがきや大あとがきと呼べばいい。最後を締めくくる注を大注と名づけよう。大注に辿り着く前におそらく本文読みは挫折しているに違いない。