よくある肉食主義の話ではない。「序説」と題したが、将来本論を書く予定はない。肉食の生活と文化に関する今日限りの読み切り。
刺身と焼きで馬肉を食してから4年以上経つ。行きつけの店の仕入れ先は熊本。2016年4月の熊本地震以降に品薄が続いたので、遠ざかってしまった。ところで、馬のみならず、市場で手に入るか店で出てくるなら、たいていの肉は生命の恵みに感謝しながら食べてきた。牛、豚、羊、山羊、猪、鹿、熊、兎、鴨、雉、雀、七面鳥、鳩、鶉、等々。
自らが買って調理すれば、それが何の肉で何という料理かわかっている。店では「骨付きラムのオリーブオイル焼き」とか「アンガス牛の肩ロースのレアステーキ」などと注文するから、何を食べているのかを知っている。では、何の肉かわからないままに料理を食べることができるか? 以前この問いに、知人が「何の肉かどの部位か知らなくても、出されたものが美味しければ大丈夫」と言った。はたして肉の身元がわからぬままナイフとフォークを動かせるものだろうか。
たとえば、縁あってパプアニューギニアに旅したとする。そこで肉の名称も部位もわからないものが出てきて、一片をつまんで口に運べるか。「パプアニューギニアだと無理かもしれない。日本なら信頼性が高いから安心して食べられると思う」とその知人は言った。しかし、かつてのミートホープみたいに表示した肉以外のものが混入しているケースがありうるではないか。一流ホテルでさえ偽った。
肉の名称に限らず、名とは文化である。ぼくたちは肉を食べるが、同時に肉にまつわる文化も味わっている。そして、文化ゆえのコメントをする。「さすがのカイノミだ、半焼けでもいける」とか「ビンタの歯ごたえがいいねぇ」とか言いながら頬張ると、いっそううまくなる。厳密なトレーサビリティは求めないが、肉と部位の名と料理名を知ってこその食文化だろう。
以前、なじみの焼肉店でいつもの「熟成赤身」を注文した。運んできた店員が「こちら生でもいけますから」と言うので、隣席の連れと話しこみながら、一切れに塩を振って生食したら、うまいことはうまいが、いつもの感触とは違う。「これ、熟成赤身?」とカウンター越しに店長に聞けば、「上ツラミですね」。どうやら注文したのが前後したらしい。肉をよく見ればわかる違いだ。お喋りしていると料理はよく見えず、よく味わえない。食事は会話をしながら楽しくと言うが、黙って集中するほうが絶対にうまい。
食の本はかなり読んでいる。本棚にはグルメ紀行や食の歴史が並んでいる。とりわけ「肉」の話への興味が尽きない。「日本では縄文遺跡からクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキなど約六〇種の陸上動物の骨が出土し、これらを食べていた。シカとイノシシが最も多い」(北岡正三郎著『物語 食の文化』)。このくだりを読むだけで、十分に刺激的である。
奈良時代以降、野生動物の摂食が禁じられ、肉食を忌む慣習が江戸時代中期まで続いた。19世紀初めになってようやく猪、鹿、熊、狸などの薬喰いが広がり、「ももんじや」という、今で言うジビエ料理店が現れた。
禁止されていた頃は、猪をヤマクジラと呼んだ。咎められそうになったら、「わたくしどもが食しておりますのは鯨でございます」と逃げるためだ。四足動物ご法度の時代、当然ながら兎もNGだった。一匹、二匹と呼ぶと怪しまれるので、替わりに一羽、二羽と呼んだのは有名な話。その名残で今も兎をそう数える。兎の肉に舌鼓を打ちながら、鶏を食べているようにカモフラージュしていたわけである。