「対象への愛に支障を来す存在は対象の敵である」と言えるのかどうか。ちょっと面倒だが、こんなことを考えさせられる本に出合ってしまった。『書物の敵』(ウィリアム・ブレイズ著)という本である。
まず「書物への愛」について考えてみた。すぐに一筋縄ではいかないことがわかった。単に読書好きと言うだけでは片付かない。所蔵好き、装幀好き、書斎好き、書店・図書館好き、本の歴史好き、そしてぼくのような背表紙眺め好き……。本にまつわる何々好きなどいくらでもある。
古本屋でこの本の背表紙に目が止まった時点で、書物と敵という組み合わせに新鮮味を覚えた。そして手に取った時点で、書物の敵はぼくの敵でもあることを認めたような気になった。普段はここで表紙を開けて目次に目を通してページを繰るのだが、そうしなかった。「本の敵とは何か」を、この本を読む前に推測してみようと思ったのである。
書物に危機を与えたり破滅させたりするもの。書物イコール読書ではないから、読書を妨げる騒音や読書を遠ざける怠慢は敵ではない……。
物理的存在としての本にダメージを与えるものは何か。人間もダメージを受ける自然災害だ。とりわけ水害や過度の湿気。湿気が多いと本の紙魚がわく。人間が原因となる人災も敵になる。本の良さは紙だと思うが、その良さが弱点になる。火災に見舞われたら跡形もない……。
精神的存在としての本の敵は思想弾圧であり、それに付随して頻繁に焚書がおこなわれた。これも火である。焼き尽くされなくても、厳しい検閲によって禁書にされれば書物の存在は危うくなるし、人々は読書機会を失う……。
書物の敵として読者の知性の低さも忘れてはいけない。書物はありとあらゆることに関して、様々な知的レベルで編まれ出版されるのが健全だ。苦労せずに読める、売れそうな本ばかりが求められれば、本の文化は広がらないしテーマもジャンルも偏ってしまう。本が存続するためには多様性が不可欠ではないか……。
こんなふうに思い巡らしてから、本を開け目次を見た。第一章から第十章までの見出しは次の通り。
火の暴威、水の脅威、ガスと熱気の悪行、埃と粗略の結果、無知と偏狭の罪、紙魚の襲撃、害獣と害虫の饗宴、製本屋の暴虐、蒐集家の身勝手、召使と子供の狼藉
火と水と無知と紙魚以外はまったく見当もつかなかったし、かなり違和感を覚えた。気になる箇所だけざっと読んでみたら、なるほど安っぽい製本にすれば劣化が早い、また、蒐集した本の題扉を好き勝手に切り取れば希少本が失われることになる。それにしても表現や時代感覚がしっくりこない。奥付を見たら、原書“The Enemies of Books”は1896年にロンドンで発行とある。この本を買ったことに後悔はないが、今から買おうとする本の目次と奥付くらいには目を通しておくのがいいと思う。