3月中旬が過ぎ下旬に入ってもまだ肌寒い時間帯がある。家を出る時にちょっと寒いなあと感じるくらいが散歩にはちょうどよく、速足で5、6分歩いているうちに温かくなる。気持ちがいいので、上着を脱いでベンチに腰掛ける。しばらくすると体感温度が下がり始め上着を着直す。こういう動作を繰り返すようになると〈季節時計〉が春の始まりを告げる。
「気温に合わせて着るものを調節しましょう」と気象予報士が言う。しかし、百葉箱の温度計が示す数値とは別の、脳が独自に感応するカレンダーがある。平年よりも暖かいと告げられたサラリーマンが、2月下旬にカッターシャツ一枚で通勤するのはやっぱり異様に見える。何かが変だと感覚が騒ぎ、めまいが起こりそうになる。
気温に合わせてそのつど物理的に衣服を調節するだけではすっきりしない。ぼくたちの脳には暦を言語で分節する季節が刷り込まれているのだ。仮に肌寒い4月の日であっても、わが街では雰囲気も気分もすでに春。冬コートにマフラー、手袋に納得しない自分がいる。気温適応を優先せずに、少々我慢してでも春装束で外出するのが自分に正直ではないか。
逆に、ゴールデンウィークが明けて少々暑くなり始め、気温が25℃を示しても、また世間がクールビズを宣言していたとしても、仕事では春スーツにネクタイがしっくりくる。環境適応だけでは四季の移ろいを感じることはできない。長年脳が記憶してきた二十四節気の顔を立ててこそ歳時記的な暮らし方が楽しめる。
ところで、大阪城の堀端の散歩道から少し逸れた先日、初めて見る光景に出くわした。近づくと碑があり「老人の森」と刻んである。行政から老人扱いされているぼくだが、この表現に季節外れに似た違和感を覚えた。何本も木は植えられている。しかし、どう見ても小さな草むら仕様なのに、なぜ森? おまけに、なぜ老人? 併せて「老人の森」。そのココロは?
「老人の森? さようですか、わたくし、自他ともに認める老人です」とつぶやいて、この森もどきの空間に立ち入ろうとする好奇心は芽生えない。老人と森という、定義不確かな二語が醸し出す不自然なネーミングも落ち着かない。どこの誰が名付けて碑まで建てたのか。碑の裏に回ってみた。社団法人大阪市老人クラブ連合会! 連合会に背筋が寒くなった。