ボウルに盛られた野菜を見せて、「1日に必要な野菜は、なんとこれだけの量」と告げるコマーシャルがある。「これだけ食べるのは無理です!」と反応する女性アシスタント。続いて「それなら、青汁を飲みましょう」という展開になる。はい、左様でございますかと素直になれないのは、へそ曲がりのせいではない。
アシスタントが一目見て食べられそうにない量の野菜。それを毎日必要だとすることにそもそも無理がありはしないか。人間は毎日それだけの野菜の栄養分を摂取しなければならないという栄養学説。各種野菜に含まれる栄養素が青汁一杯だけで摂れてしまうのなら、他の野菜は一切要らなくなる。これだけの野菜が必要だと提起したのに、要らないという結論が導かれてしまう。
ところで、必要とは何か。「あることを満たしたり叶えたりする上で無視できない要素や条件があって、それを怠らずにしっかりと用いること」と定義してみた。〈Aを実現するためにBが必要〉という図式である。海外旅行するにはパスポートが必要、血液検査をするには注射器が必要、という具合。野菜の例で言えば、次のようになる。
1日に必要な野菜の栄養分(A)を摂るにはこれだけの量の野菜(B)が必要
図式に当てはめて文意を通そうと思ったら、必要を2回使うことになる。パスポートや注射器のようにすんなりと納得できないのは、「これだけ必要」という野菜の量に全幅の信頼が置けないからだ。したがって、「これだけの野菜の量の栄養分を摂るには青汁が必要」という結論にも「待った!」をかけざるをえない。
意味が明快なようだが、必要という用語は「不要」に比べれば曖昧である。不要に程度はない。要らないものは要らないという同語反復が可能である。対して、必要にまつわる条件は何一つ決まっていない。条件を規定するのは誰かであって、どの程度必要なのかはつねに一定ではない。「必ず要る」と言いながら、質や量はそのつど変わる。
「印鑑は必要ですか?」「はい」「忘れたんですけど」「じゃあ、サインで結構です」……というやりとりの経験がないだろうか。あるほうがいいが、なければないでオーケーという場合でも、とりあえず言っておく。必要とはそんなものなのだ。